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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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死後の世界?

今月は盂蘭盆の月。一般的には旧暦の8月13日頃をお盆として、お墓参りなどが行なわれますが、元々は7月15日を盂蘭盆といい、古来より、亡くなった先祖の御霊を供養する行事が執り行われます。

以前にも書きましたが、盂蘭盆(お盆)は、お釈迦さまの二番弟子である目連(もくれん)が、神通力で霊界を見たところ、亡くなった母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知り、お釈迦さまに、母を救うにはどうしたらよいか指導を請うたところ、7月15日に大勢の僧を真心から供養しなさいと教えられ、その結果、母親を餓鬼道から救うことができたという話に由来しています。

先祖の供養ということに思いが至るこの時期に、ぜひ触れてみたいテーマがあります。それは、死後の世界があるかどうかということです。

誰にでもいつか死がおとずれ、自分の子どもや子孫から見たら、いつか自分も先祖になるわけですが、簡単にいうと「死んだらどこに行くの?」「先祖はどこにいるの?」ということです。

この問いの一つの回答になるかどうかはわかりませんが、面白いサイトをみつけたのでご参考のほど。↓

死後の世界

信じる信じないは個人の自由ですが、要するに、「生きている間、悪いことはしないで、いいことをしましょう」ということを言いたいのだな、ということはすぐわかります。

さて、この安易な(?)結論に行く前に、よく「死後の世界を見てきた」という話をテレビや雑誌などで見たり聞いたりすることがありますが、これはおかしな話です。なぜなら、死とは人生一度きりのことであり、仮に死後の世界を見てきたといいながら今現在生きているなら、その人は死んでいないからです。なので、正確に言えば、それは「死後の世界」ではなく「仮死の世界」ということです。

あえてバッサリ切り捨てる言い方をすれば、臨死体験などとしてとりあげられている話の多くは、死にそうな体験をした人が、たんに夢を見ていただけということでしょう。もちろん、私は体験したことがありませんので全て否定はできませんが、こういう話に触れるときは、鵜呑みにせず、冷静な目で見る必要があるということです。

要するに、死後の世界が、有るということも無いということも証明不可能であるので、論じることすらムダなことと思ったほうがよさそうです。ただ、以前にも書いたことがあるとおり、生まれ変わりということも証明不可能ではありますが、来世もいい世の中に生まれ変わりたいと願って生きることはムダではないと思います。

いずれにしても、今を精一杯生きるということが一番大事なこと、ということですね。

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心は形を求め、形は心を整える

以前、自分が変わるとは?ということを書かせて頂いたことがある。この中で、人生八変化というのを紹介させて頂いた。内容は以下のとおり。

『人生八変化』

 自分が変われば、相手が変わる

 相手が変われば、心が変わる

 心が変われば、言葉が変わる

 言葉が変われば、態度が変わる

 態度が変われば、習慣が変わる

 習慣が変われば、運が変わる

 運が変われば、人生が変わる

よく読むと、この内容はちょっとおかしい。要は「自分が変われば、人生が変わる」ということを結論づけたいために、後付けで語呂合わせ的に間の内容を決めた感じがする。

これは一旦さておいて、自分が変わる(変える)というのは、自分の何を変えるのかをよくよく考えたとき、それは自分の心や言動を変えるということであることは納得できると思う。

さて、ここでさらに考えたいのが、心というものはカンタンに変えられるものかということである。

その昔、究極の選択というのが流行ったことがある。その一つに、超美人だが性格が悪い女性と、超ブサイクだが性格がよい女性、どちらがよいかというのがあった。一つの答えとして、外見はそうカンタンに変えることはできないが、性格は直すことができるだろうから、現時点で性格が悪くても、超美人の女性のほうがいいというのがある。

一瞬「なるほど」と思えるが、ここに落とし穴(?)がある。今の世の中、その気にさえなれば、美容整形術が進化している昨今、外見を変えることなどたやすいことである。逆に、性格を変えるというのはそうカンタンにはいかない。自分自身を振り返っても、回りを見てもすぐに理解できることである。

例えとして、パソコンのハードウェアをグレードアップするのはそれほど難しいことではないが、ソフトウェア(OSやアプリケーション)を変更するのはカンタンなことではないということと同じである。

「心は形を求め、形は心を整える」という言葉がある。つまり、心を変えるには、何か求めるものが必要だということである。ある特定のスタイルを求めることによって、そのスタイルにふさわしい心に徐々に変化していく、ということである。

妙法蓮華経という仏教経典の中に、果てしない年月の中で、何度も生まれ変わり、死に変わりしつつ、多くの仏に仕え、多くの人を苦しみから救う行為を数え切れないほど繰り返すことによって、自分もいつか仏に成れる、といったことが説かれている。

求めるものの究極は「仏の境地」であるが、この理屈はあらゆることに当てはまる。今よりちょっと高い境地をずっと求め続けるということが大事なことのようだ。

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真の可能性とは?

巷の語録集なるサイトを見つけました。以前聞いた言葉がケッコウ掲載されていて、「そういえば、こんな言葉聞いたことあったなぁ」なんてミョーに懐かしくなったりして(^^;

中でも特に、以下の言葉はずーっと小生の心の奥底に残っていた言葉です。

「問題を正しくつかめば、半ば解決したも同然である(ケタリング)」

「人間の眼は、失敗した時にはじめて開く(チエホフ)」

「こだわらず、とらわれず、かたよらず(般若心経)」

「一隅を照らすは国宝なり(最澄)」

「可愛くば、五つ教えて三つほめ、二つ叱って、良き人とせよ。(二宮尊徳)」

「人を熱烈に動かそうと思ったら、相手の言い分を熱烈に聞きなさい」

「無知を恐れるな、いつわりの知識こそ恐れよ(バスカル)」

「自分が無力だと考えない限り、人は誰も無力ではない」

これらの言葉を羅列してみると、一つの共通点が浮かび上がってきます。それは「可能性を見出す」ということです。そして、その可能性というのは、結果的に不可能にもなりうる可能性などではなく、必然性を前提とした可能性であり、必ずそうなる、実現できるということです。

真の可能性というのは、そういうことだと思います。つまり、「できそうだ」などというあやふやなものではなく「できるに決まっている」ということです。

これは結局、自分自身を信じることが最も重要なことといえそうです。マーフィーの法則などでも、できないと思った瞬間にできなくなる、といったことが言われているとおり、否定はダメなことであり、否定はダメということすらダメであり、つまりは、とことん肯定することがウマくいく秘訣である、というワケです。

ついついクセで、ネガティブになったり、弱気になったり、悪い方に考えたりしてしまいがちなことが多いと思いますが、「できる」「できるに決まっている」という発想を身につけたいと思います。

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安心して悩んでいい

今まで「救われとは」「幸せとは」ということをテーマにしたとき、自分自身の尊さ(仏性)に気付くことだということを繰り返し書いてきた。

もちろん、「救われたい」「幸せになりたい」と願って生きることは最も重要かつ基本であることに違いない。

さて、そうなると、いつになったら「救われる」のか、「幸せ」になれるのか、つまり、あとどれだけ生きたら自分の尊さ(仏性)に気付けるのか、という疑問も生じてきそうである。

実際、私はそういう疑問を持っていたのだが、いやはや、このたび、その疑問を晴らしてくれるイイ話を聞くことができた。

結論を言うと、私たちはすでに「救われている」し、「幸せ」なのである。

なぜかといえば、今こうして生きて、いや、生かされているからである。生かされていることは、すなわち、「救われている」ということなのである。

明日死ぬかもしれない重病を患っていようとも、今この瞬間生かされていることが救われているのである。いや、今世の(肉体としての)命が終わったとしても、来世があるから救われているのである。

つまり、我々は既に、永遠に、救われの中に居るのである。

・・・とまあ、かなり極端な、いわゆる「悟りの境地」的なカンジを受けますよね。

しかし、以上のことをハッキリ意識して(信じて)生きることができるとしたら、それこそ、救われ、幸せの中で生きられる、ということではないでしょうか。

だとしても、現実には、次から次へといろんな問題や困難が出てくるのが人生ではありますが、既に救われているのだから、安心して悩んでいいし、苦しんでいいということになるワケです。

悩みも苦しみも、大きな目で見れば、「救われ」「幸せ」の現象の一つである、ということになります。

悩んでいる、苦しんでいる最中は、とてもそんな心の余裕は持てないかもしれませんが、時間が経ち、ほとぼりが冷めたとき、あのときの苦労があったからこそ、今こうして安らかでいられるのだなぁ、と思えるときがくることもあると思います。

だから、安心して悩んでいいんです。

・・・とまあ、そんな心境になりたいもんですね。

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限りある肉体であることを自覚

一週間ばかり仕事で長野に行って参りました。今は、長野に限らないかもしれませんが、暑くも寒くもなく、雨もあんまり降らず、いい季節ですね~。

東京とは比べものにならないぐらい空気はウマいし、景色はいいし、いっぺんで気に入りました。ただ、車がないと移動がタイヘンではあります(^^;

さて、またいい話を聞いたのでメモっておきます。

もしも「自分の残りの寿命を表示できる腕時計」があったら売れるでしょうか、売れないでしょうか?私は欲しいと思います。

仏教では、肉体には限りがあるが、魂は永遠に存在するという教えがあります。いままで何度も書いているとおり、魂が永遠に存在するかしないかを証明することは、おそらく永久に不可能でしょう。

そしたら、魂は永遠だと信じるほうが、心安らかに過ごせると思います。が、肉体はいつか必ず無くなるものであるということは、誰しも分かり切っていることではありますが、2~3年後とか2~3ヶ月とか、まして2~3日後に死ぬかもしれないと思いながら生きている人は、人それぞれの年齢や患っている病気によって意識も異なるとは思いますが、あんまりいないのではないでしょうか。

ふと、あと自分はどれぐらい生きられる(生かされる)のかなぁ、などと思うことがあると思いますが、そんなときこそ、今生きて(生かされて)いることが有り難いと思えたりもします。それは、魂は永遠だからということをある程度信じていられるからだとも思えます。

魂も肉体も、死んでしまったら全て終了ということならば、太く短く、他人のことなどおかまいなしに、自分のやりたい放題のことをやって死のうと考えてしまいそうです。しかし、そうならないのは、やはり心のどこかで、魂は永遠であり、生まれ変わり死に変わりしながら、どこまでも魂が成長して(霊格が向上して)いくということを感じているからとも考えられます。

まして、肉体はいずれ無くなるのだという覚悟ができている人ほど、精一杯生きようと努力するのだと思われます。

限りある肉体であることを自覚すること、非常に大事なことだと思います。

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自分が変わる(自分を変える)とは?

仏教に、「諸法実相(しょほうじっそう)」という教えがあります。これは、妙法蓮華経というお経の中で説かれています。同様に、無量義経というお経では「性相空寂(しょうそうくうじゃく)」という教えとして説かれており、内容はほぼ同じことをいっています。

また、お経を全部把握しているわけではありませんが、その他のお経でも同様のことが説かれているようであり、つまり、仏教に貫かれている一つの真理と考えることができるようです。

で、その「諸法実相」とか「性相空寂」というのはどういうことかというと、全ての現象は因と縁の和合で生じており、あらゆる現象は、その因や縁に相応しく展開しているのであって、これに漏れるものは無い、ということです。つまり、目の前の現象を変えるには、因や縁となる要因を探り、それを変化させれば現象も変わる、ということです。

んー、分かったような分からないような感じがしますが、これを先師の方々は、非常に身近で分かりやすい言葉に言い換えてくださっています。それは、

『自分が変われば相手が変わる』

ということです。
このキーワードでネットを検索すると、実にいろいろなサイトがヒットしますが、その中で、以下ようなことを書いているサイトがいくつかありました。

 『人生八変化』

 自分が変われば、相手が変わる

 相手が変われば、心が変わる

 心が変われば、言葉が変わる

 言葉が変われば、態度が変わる

 態度が変われば、習慣が変わる

 習慣が変われば、運が変わる

 運が変われば、人生が変わる

なるほど、つまり、自分が変われば人生が変わる、ということですね。だいぶ分かりやすくなった「感じ」がします。

さて、それでは、自分が変わるというのは、どのように変わることなのでしょうか?また、「変わる」という言い方より、「変える」という言い方のほうが積極的だと思いますが、いずれにしても、「どのように変われば(変えれば)いいのか」ということまで言及しているサイトは見つかりませんでした。このままでは、善い方に変われば善くなり、悪い方に変われば悪くなるという「からくり」を示しているにしか過ぎません。

もちろん、善い方に変わればいいに越したことはなく、それを明らかにしたいと思いますが、要するに、小生のこのサイトで何度も紹介している通り、「己の仏性に目覚める」ということが「変わる」ということの究極目標であり、そのことを含めてこと細かに説いているのが本来の仏教です。

仏性に目覚めるとは、つまり、自分の尊さ、命の尊さを自覚するということです。そして、本当に自分の尊さを自覚できた人は、他人の尊さにも気付けるというのです。ここがたんなる「自惚れ」とは大きく違うところです。「あの人はダメな人だ」と思ったり、平気で人を(自分自身も含めて)傷付けたりしているとするならば、まだまだ自分の尊さを自覚できていないのだということです。

仏性とは「絶対慈悲」の心であり、本来誰しも備えている心です。それに気付きさえすればいいのだよと、仏教では説いています。

非常に明快で簡単ですが、実践するというのがムズカシイのです。「おはよう」の挨拶、「ありがとう」のお礼、「ごめんなさい」の反省の言動は、いいと分かっていても、なんのてらいもなく口にすることが億劫だったりするわけです。特に家族に対しては。

しかし、より高い境地に上がろうとすることは、多少なりとも苦労が必要なわけで、その苦労は誰しも通らなければならないことも事実です。一歩踏み出す勇気と努力を養いたいと思います。

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幸せとは?

西洋のことわざに、次のようなものがあります。

1日だけ幸せでいたいなら床屋にいけ。
1週間だけ幸せでいたいなら車を買え。
1ヶ月だけ幸せでいたいなら結婚しろ。
1年だけ幸せでいたいなら家を買え。
一生幸せでいたいなら正直でいることだ。


ふむふむ、なるほど、と思わされます。ただ、正直過ぎるといろんな誤解やトラブルを起こしかねません。ハゲている人に向かって、そのまんま「ハゲてますね。」とは言えないでしょう。つまりバカ正直であってはならないわけです。バカ正直というのは、正直である前にバカなわけですから。

そこで、仏教では「仏の智慧(知恵ではない)を身につけなさい」と説いています。仏の智慧を身につけるとはつまり、「諸行無常(すべては変化する)、諸法無我(すべては関係し合っている)の真理を認識することである」と説かれています。そして、この「真理を認識した状態」のことを涅槃寂静、いわゆる涅槃の境地といい、そこを目指して日々精進することが仏教であり、仏道修行ということです。

さて、そこで幸せとは何かということになると、えてして限りあるものを求めようとすると、幸せ(というか優越感)にもおのずと限りがあり、冒頭のことわざのように、車を買っても、結婚しても、家を買っても、その幸せは長続きするものではないわけです。一時の幸せというのは、本当の幸せとはいえないでしょう。

それならば、その元となるお金をたくさん持っていれば幸せかというとそうではないことはすぐ理解できると思います。どんなにたくさんのお金があっても、遣ってしまえばなくなるわけですし、やはりお金も限りあるものの一つに過ぎません。

あるいは、名誉が得られれば幸せかというと、やはりそうではありません。総理大臣になろうとも、大統領になろうとも、オリンピックで金メダルをとろうとも、それのみを目標にしてしまうと、その目標が達せられたら、あとは堕ちていく一方です。名誉もやはり限りあるものといえます。

では、限り無いもの、絶対的なものとはなんでしょうか。それがつまり、仏の智慧なわけです。仏の智慧を身につけることを目指して生きている状態こそが、幸せということになると思います。具体的には、仏に、そしてすべてに生かされていることが有り難いと思えるようになることです。

車があってもなくても、結婚してもしなくても、総理大臣になれてもなれなくても、オリンピックで金メダルをとってもとれなくても、心の底から有り難いことだと思えるようになれたら、こんな幸せなことはないのではないでしょうか。

毎日一歩ずつでも、仏の智慧に近付いているということが意識できるように生活したいものです。

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ビッグバンは正しいか?(3度目のパラダイムシフト?)

パラダイムとは、概念とか範例という意味である。シフトとは移行とか転換という意味であるから、パラダイムシフトとは、簡単にいえば「概念転換」ということになる。

ただし、科学の世界でいうパラダイムシフトというのは、もっと大きな、衝撃的・革命的な転換という意味で使われているようだ。

最も有名なのは、1度目のパラダイムシフトといわれる、プトレマイオスが提唱したとされる天動説から、コペルニクスが提唱した地動説に概念が切り換わったことである。

コペルニクスが登場するまで、天動説は約1,500年もの間支持され、信じられてきたのであるから、地動説が唱えられたときの世間の驚きは相当なものであったろうことは容易に想像できる。

2度目のパラダイムシフトは、アインシュタインの相対性理論の登場である。それまで、ニュートン力学をベースに科学が成り立っていたものが、「光の速さは一定だ」「エネルギーと質量は等価である」とした相対性理論は、科学の世界ではこれまた衝撃的な出来事だったようだ。

現在の科学は相対性理論が基になっており、この宇宙がビッグバンと呼ばれる大爆発から始まったという概念も、この相対性理論から導かれているそうである。

さて、仏教を学んでいる私には、一つ、大きな疑問がある。

それは、お釈迦さまが特に晩年に説かれた、その教えの究極的な内容の一つに、「仏の命は久遠の過去から永遠の未来まで不生不滅である。そして、この仏の命の分身である我々の命も、肉体は滅びても魂は永久不滅である。」というのがあるが、ビッグバンが正しいとするなら、久遠の過去から存在する命という、いわば「始まりが無い」という教えは間違っていることになる。

ビッグバン理論では、宇宙の始まり(ビッグバン)は、今から約150億年前だそうであり、時間も空間も、そのビッグバンを起点として始まったのだそうであるから、仏の命もそこが最初だったということになる。

ただ、ビッグバン以前にも「何か」があったとする理論もあるそうだから、そう考えれば、その何かも含めて仏の命だったのだと解釈すれば、どうにか納得できないことはないがいまひとつ釈然としない。

そんな中、次のようなサイトを見つけた。

間違いだらけの宇宙論

このサイトの主旨は、「ビッグバン理論は間違いであり、定常宇宙論こそが正しい」ということであり、つまり、無限の過去から宇宙は存在していたのだ、というものである!この衝撃的な内容が本当なら、3度目のパラダイムシフトといえる概念ではなかろうか。

とまあ、長々と書いてしまったが、餅は餅屋にお任せをして、「仏は久遠の過去から永久の未来まで存在し、我々を導いてくださっている」ということを信じて生きるほうが安らかに過ごせることに違いは無い。

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大事な能力

悟りを開いた人は、非常にたくさんの能力が開花されるそうだが、その一つに「解脱知見(げだつちけん)」というのがある。これは、「自分が、煩悩を超越し悟りを開いて(解脱して)いることを自分で知っている」ということである。

「煩悩を超越し」というところがポイントで、煩悩を消滅させているということではなく、煩悩も相変わらず備えているのだが、煩悩に振り回されなくなっている、ということである。

つまり、煩悩を超越しているということを自覚していると同時に、煩悩も相変わらず備えているということをも自覚しているということだ。仏教では、この能力は悟りを開いた人だけが持っているのではなく、実は誰しも持っている能力なのだが、それに気付いていない、もしくは充分に発揮されていないだけなのだと説いている。

人間は、頭脳的な能力だけとってみても、記憶力、計算力、判断力など、もちろん個人差はあるものの、他の動物と比べたら非常に優れた能力を持っているといえるが、なかでも、この「解脱知見」という能力は特に大事な能力である。

「悟り」とか「煩悩」ということを、おもいっきりカンタンに言い換えると、「長所」と「短所」ということになりそうだが、要するに、自分の「長所」と「短所」を、自分でよく把握するということが、特に人間関係を築いていく上では大事なことだということは容易に理解できることではなかろうか。

さらに、自分では「長所」と思っている部分が、回りの人から見たら「短所」だったりすることもありえるし、その逆もありえる。自分を顧みるということを常々意識できるようになりたいものである。

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全てが尊い存在

多忙モードからようやく通常モードに切り替わりました。久しぶりの更新です。

仏教について、コツコツ学ばせて頂いておりますが、最近また新たな気付きが得られましたので書かせて頂きます。

これまでに何度も、仏教とは、仏さま(釈尊)が説かれた教えを学び、身に付け、実践することによってよりよい人生を歩もうとする教えであり、同時に、仏に成る(要するに、「できた人」になる)教えである、ということを書かせて頂いた。

仏に成るということは、仏性を自覚するということであり、この仏性とは、誰にでも「備わっている」ものであると学ばせて頂いており、そのように書かせて頂いてきた。

さて、この「備わっている」という感覚は、泥水の水面に咲く蓮の花のように、汚れ多いものの中に、仏性が内在しているというイメージであり、汚れを取り除き、磨くことによって仏性が輝き始めるというように感じられる。

しかし、仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説いており、これは「あらゆるもの(一切衆生)がことごとく(悉)仏性を(有)する」という意味であるから、キレイなものとか汚いものなどという区別は無いということである。

全ての存在が仏性そのものである、ということである!キレイとか汚いというのは、人間のあさはかな才覚でしかないようだ。

蓮の花にしても、泥水があるからこそ、泥水の養分を吸い取って花を咲かせるわけであり、花と同様に泥水も尊い存在である、ということになる。

「キレイ」とか「汚い」とかを超越した「全てが尊い存在である」ということを発見し、実感されたのが、どうやらお釈迦さまの「悟り」ということであったようだ。

諸法無我(しょほうむが:すべて関係し合っている)という真理を基に考えれば、必要のないものは存在すらしないわけであるから、人間のあさはかな知恵で、むやみに排除するようなことを行うことは、真理に逆らう行為である、ということもいえる。

なかなかこのような達観した境地に達することはできないのが凡夫の悲しさではあるが、やはり繰り返し繰り返し、一日のうちほんの少しの時間でも、全てが尊い存在であるということに思いを馳せることが、自分をそして周りをも向上させる為にとても大事なことのように思う。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
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