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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

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カテゴリー「仏教」の記事一覧

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質直意柔軟

マックさん、コメント&ご質問ありがとうございます。おかげさまで、ワタシもさらに深く仏教を学ばせていただけます。

「いい教えであるハズの仏教が、なぜ広まらないのか?」

核心的なご質問ですね。それは、個人個人の「過信」とか「思い上がり」に原因がありそうです。つまり、「私には宗教など必要がない!」という気持ちです。

妙法蓮華経の方便品(ほうべんぽん)第二というお経に、お釈迦さまがいよいよ真実を説き明かそうとされたそのとき、五千人の人たちがお釈迦さまの話を聞こうとせず、その説教の場を立ち去っていったという話があります。

この五千人の人たちというのは、まさに「過信」していた人たちだったと、お経には説かれています。自分はもう充分仏道を学び、行ない、いまさら学ぶべきことなどないのだ、という思いです。

2,500年も前のお釈迦さまが在世中の時代ですらそういった人たちが、しかも五千人もいたわけですから、今のような情報化社会、個人のアイデンティティーが過剰に尊重される時代においてはなおさらという感じがします。

そういった意味では、社会の仕組みが悪いという見方もありそうですが、結局のところ、その社会を構成しているのは個人でありますので、個人個人がつねに改革していこうという意識を持つことが重要なのではないでしょうか。

もう一つ、如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六というお経に、「質直意柔軟(しちじき い にゅうなん)」という言葉があります。心を柔らかく、正直にという意味です。もっと簡単にいうと「素直」ということでしょう。個人個人が培ってきた知識はたくさんありますが、どうやってその知識を身に付けたかというと、「素直」に学んだからです。つまり、素直さをいつまでも失わないことが、新しいことをどんどん吸収する秘訣であるということです。

さて、仏教が広まっていないと感じておられるようですが、悲観する必要はありません。見方を変えると、日本という国ほど、仏教が正しく広まっている国はないからです。聖徳太子の十七条憲法を皮切りに、仏教の真意は、日本の文化に大きくかかわっています。特に「有難う」「お陰様」などという言葉は仏教からきており、これは、他の言語に訳せないのだそうです。

また、世界中の人、とくにアジア圏の人たちは、近年日本の仏教を学びたいという人が増えているのだそうです。

質直意柔軟、つねに心に留めておきたい金言であります。

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真理どおり生きるとは?

前の記事で、マックさんから「真理どおり生きている人はいますか?」というご質問をいただきましたので、可能なかぎりのご回答を兼ねてよく考察してみたいと思います。

そもそも、「真理どおり生きる」とはどういうことでしょうか?私たちは、この地球上で、太陽の光を浴び、空気を吸い、水を飲み、食事をし、睡眠を取りながら日々生きて、いや生かされています。

なぜイチイチ「生かされている」というのか。身近なことでいえば、私たちは眠っていて意識がなくても、自然に呼吸をしているし、心臓も動いています。誰がそうさせているのでしょうか。それはまさしく「真理(=宇宙の絶対的法則)」がそうしているわけで、お釈迦さまは、その真理がまぎれもなく実在するのだということを悟られたわけです。

そう考えたら、真理どおり生きていない人は一人もいない、ということになります。

いやいや、そんなことは誰でも分かり切っておられるでしょうから、真理どおりに生きている人は誰かというご質問の真意は、真理を悟っている人がいるか、ということと推察いたします。そうなると事情は全く変わり、結論からいえば、真理をカンペキに悟ったという人は、いまだかつて誰もいないともいえます。お釈迦さまですら、35歳で悟りを開かれたのちも、死ぬまで真理を探究し続けられ、深めていかれたそうですから。

ただ、瞬間的になら、真理に気付き、真理に基づいて生きている人は大勢いるともいえます。この瞬間が長い人、あるいは回数が多い人ほど立派な人である、といえそうです。

「仏教を学んで、何か変わったことありますか?」というご質問もいただきました。

変わったこと・・・たくさんあって書ききれません(^^)

中でも特に大きく変わったのは、幸せの価値観、でしょうか。ほんの小さなことにも幸福を感じることができるようになった、とでもいうんでしょうか。それによって、腹の立つことがグンと減りましたね。

これはあくまで、私個人の感想ですので、仏教を学んでいる多くの人にいろいろ聞いてみられるとよいかと思います。

今回はこのへんで。

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先祖供養の真髄

先日、<なんのために生きる?>の中で、先祖を供養するというのは、成仏して頂くという目的のみにとどまらず生命を頂いたことに対する感謝の念で行うこと、ということを書かせて頂きました。

これは実は、仏教に限らず、キリスト教でもイスラームでも、祈ることによって成仏できる(=極楽浄土に行ける、もしくは天国に行ける)という宗教的思想の根っ子のところは変わらないようです。

ところが、元々の仏教の思想には、もっと深い意義があったということを、今日また改めて学ばせて頂きましたのでさっそくメモさせて頂きます。

仏教の経典の一つ、妙法蓮華経というお経の中の化城諭品(けじょうゆほん)第七という章の部分に、次のような一説があります。

「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」

現代語に直訳すると、以下のようになります。

「わたくしどもの願いといたしますところは、この功徳をあまねく一切のものにおよぼし、わたくしどもすべての衆生が、みんなおなじように仏の境地にたっしたいということでございます。」

「この功徳」というのは、仏の教えを行ずる功徳という意味なので、先祖供養も含まれます。つまり、先祖供養をすることによって、この私自身が、皆と一緒に(この、皆と一緒にというのが重要!)仏の境地に達したいと願うということになります。言い換えると、仏の境地に達したいという尊い願いが起きたのは、先祖がいてくれて、この私に生命を授けてくださったお陰です、ということにもなります。

極楽浄土や天国にいけるように祈るという宗教の根本思想に加え、要するに、立派な人間になります、さらには、立派な人間を大勢作ります、教育しますという願いを持つことが先祖供養の真髄であるといえそうです。

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何のために生きる?

久しぶりの更新です。今年も盂蘭盆の月を迎えました。

毎年同じことを書いておりますが、一般的には新暦の8月13日頃をお盆として、お墓参りなどが行なわれますが、元々は7月15日を盂蘭盆といい、古来より、亡くなった先祖の御霊を供養する行事が執り行われます。

盂蘭盆(お盆)は、お釈迦さまの二番弟子である目連(もくれん)が、神通力で霊界を覗いたところ、亡くなった母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知り、お釈迦さまに、母を救うにはどうしたらよいか指導を請うたところ、7月15日に大勢の僧を真心から供養すると共に、僧達と一緒に母が救われるよう供養しなさいと示され、その通り実行した結果、母親を餓鬼道から救うことができたという話に由来しています。

この時期に、いわば集中的に先祖供養をいたしましょう、というのが現在まで受け継がれてきている盂蘭盆でありますが、盂蘭盆だからというのでなく、先祖を供養することは大事だということは、たいていの人は分かり切っていることでありましょう。

さて、ではなぜ先祖を(というか、子供を亡くしておられる人もいるので、広義的には亡くなった人全般を)供養することが大事かということが一つの命題となります。

もちろん「迷わず成仏して頂きたい」という願いで供養することも大事でありますが、それだと、どれだけ供養したらうちの先祖は成仏してくださるんだろう、という発想も起こり得ます。

結論をいえば「感謝の供養をする」ということが目的であり手段であります。特に親に対しては、たとえどんなに酷い親であったとしても、この私に命を授けてくださったことは紛れもない事実です。そのことに本当に感謝ができれば、亡くなった人に対してだけでなく、生きている人やモノ、自然、全てに対して「本当の」感謝ができるようになるわけであり、仏教はそういうことを説いています。

つまり、本記事のタイトル「何のために生きる?」という問いには、命を頂いたことに感謝し、感謝の行ないをするためということが普遍的な回答になります。感謝の行ないとは、自分の、そして皆の命を尊重する、光らせるということになりましょう。

昨今の無差別殺人、怨恨殺人、あるいは自殺など、突き詰めれば、自分自身の命の尊さ、有り難さを忘れてしまうという最悪の病気がなせる業といえます。

命を頂いたことの尊さ、有り難さをねんじゅう意識し、感謝の念で生きるという生き方を全ての人に心底から理解してもらわなければならないと感じます。

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右が上座、左が下座

少し間があきました。今回はマメ知識を一つご披露申し上げます。

「彼の右に出るものはいない」という言葉がありますが、なぜ「左」ではなく「右」なのかご存知でしょうか?

それには以下のような理由があります。

古来より、天皇陛下は南を向いてお座りになられます。これは、儒教からきている天子南面の思想に基づくといわれていますが、天子南面の歴史をひもとくと、お釈迦さまが亡くなるとき、頭を北に向けて横たわられたため、その逆で天子は南を向くこととした、という説があります(どうして儒教でお釈迦さまを意識しているのかは分かりませんが、昔はいろいろつながりがあったのかなーと想像します)。

では、何故お釈迦さまは頭を北に向けられたのか(いわゆる北枕)・・・。これは、お釈迦さまが亡くなられたのは古代インドのクシナガラという町で、生まれ故郷のマガダ国の首都・ラージャグリハに帰る旅の途中であり、クシナガラから見てその生まれ故郷は北の方角だったため、頭を北に向けられた、ということです。

だいぶ回りくどくなってしまいましたが、まぁとにかく、そんなこんなあって、天皇陛下は南を向いてお座りになられる、ということになっております。

すると、天皇陛下から見て左側が東、右側が西となり、自然に、太陽が昇る側(日が垂れ込む側:左側)を上位、太陽が沈む側(日がみぎる、かげる側:右側)を下位とするようになりました。これを、一般大衆からの視点で見ると、天皇陛下の右側が上座、左側が下座となります。

そして、いわゆる左大臣とよばれる人達、この人達は天皇の左側、天皇に向かうこちらから見て右側に座る人達ですが、この人たちは天皇の次にエラい人達であり、右大臣とよばれる天皇の右側、こちらから見て左側に座る人達は、その次にエラい人達であります。

つまり、左大臣より右に座れる人がいるとするならば、それはイコール天皇であるため、結論として「彼の右に出るものはいない」というのは、こちらから見て左大臣より右に座れる人はいない、ということになります。

あと、お芝居などの舞台でも、向かって右側を上手、左側を下手といいますが、これなども古来からの右を上座、左を下座とする思想からきているのかもしれませんね。

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求めたるところ

「師の跡を求めず、師の求めたるところを求めよ」という言葉がある。これは儒教の開祖、孔子の言葉である。誰にでも尊敬する先生や先輩、先祖や親が居ると思う。「あの人のようになりたい」「あの人のマネをしよう」と思って実際に行い、ある程度自分の身についてきたら、そこからさらに研鑽を積み、いよいよ自分オリジナルのものを作り上げていくということになろう。

ところで、「師の求めたるところ」というのは何であろうか。もちろん、分野を分けたら、師の人数分だけ、求めたるものがあることになってしまうが、「師」と呼ばれるような人たちが根本的、本質的に求めようとするものという意味で突き詰めていくと、一点に収束していくのではないだろうか。

これの一つの回答として、釈尊の言葉「自灯明・法灯明」がある。

この「自灯明・法灯明」は、いわば釈尊の遺言ともいわれている言葉であるが、釈尊がいよいよ涅槃に入られんとするとき、うろたえる弟子達が切羽詰って釈尊に「もし釈尊がお亡くなりになるようなことがあったら、私共はこれから何を頼りにして生きていけばよいのでしょうか。」と質問し、それに対し釈尊が「これからは、自分の進むべき道は、自分で判断すべきである。他人にゆだね、他人のせいにしてはならない。そして、自分が判断するときは、法(真理)に照らし、法にのっとって行なわなければならない。あやふやなもの、よこしまなものに頼ってはならない。」と答えられた。これがいわゆる「自灯明・法灯明」である。

つまり、師が求めたるところをギリギリまで突き詰めていくと、法(真理)に行き当たると思われ、おおげさにいえば人類共通の「求めたるところ」ということになろうか。

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宗教について

一口に「宗教」というと、つい「危ない」とか「カルト」といった言葉を連想しがちだが、冷静に考察してみたい。

とりあえず、「宗教」をgoo辞書ウィキペディアで調べてみると、単純には、人間の意思を超越した「なにものか」の存在を認め、その「なにものか」によってもたらされる「秩序」に従うこと、と意味付けることができる。

まず、その「なにものか」が何であるかということになるが、一般的に神、仏、真理などといわれる礼拝対象、崇拝対象であり、これはいわゆる「宗教」の「宗」に該当するものであると解釈できる。

次に、「秩序」であるが、「なにものか」を認めることにより体系化される「教え」という意味になるので、これは「宗教」の「教」に該当すると解釈できる。また、そのような秩序に従う人々の集まりを宗教団体というが、日本国の宗教法人法では、宗教団体を以下のように定義している。

第二条(宗教団体の定義)  この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。
一 礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体
二 前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体


さて、ここで一つ感じるのが、宗教法人法は、宗教団体に関する法律であって、それぞれの宗教団体が定める礼拝対象や教えそのものを取り仕切る法律は存在しないということである。それは、憲法において思想、信教、言論、等々の自由を認めているからである。

したがって、宗教の内容そのものが法律によって規制されることはないが、それゆえ、その宗教が正しいか間違っているかを外から判断するのは難しい。とはいっても、社会的に問題や害悪を及ぼすような宗教団体は、明らかに「おかしい」といえる。これは宗教に限ったことではなく、極端な思想をもった団体などもあてはまる。

つまり、間違った宗教や思想といった場合、間違っているのは、たいていの場合「宗教」の「教」の方、解釈とか秩序の方であると考えられる。「宗教」の「宗」は、いわば絶対的な存在であるので、正しいとか間違っているという概念をも超越しているハズである。こちらのサイトを併せてご参照願いたい。

神、仏、真理は、いわば、救いのメッセージを発信し続けていると思われるが、そのメッセージを正しく受け取ることが正しい宗教であるといえそうである。

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二宮尊徳

またイイ話を聞いたのでメモっておきます。

二宮尊徳。言わずと知れた二宮金次郎さんのことですが、以下のような言葉を述べられているそうです。

父母(ちちはは)も
その父母も
我が身なり
我(われ)を愛せよ
我を敬(けい)せよ

親孝行とか先祖供養というのは、とどのつまり自分自身を大切にすることだ、ということだそうです。誠に単純にして明快なご示唆です。自分自身を本当の意味で大切にする人は、親や先祖を大切にできる人である、ともとれますね。

逆に、親や先祖の有難さがわからないと、本当の意味で自分自身を大切にできないのである、ということにもなります。

もっといえば、親も自分も大切にできる人は、他人も大切にできる人だといえると思います。入り口はどこであろうとも、自分自身が正しい生き方に目覚めましょうという結論にたどりつきそうですね。

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花まつり

4月8日は、お釈迦さまの誕生日で、昔から「花まつり」としてお祝いされてきました。日本では、明らかに仏教のほうが歴史が古いのですが、圧倒的にイエスキリストの誕生日である12月25日の「クリスマス」のほうが一般的になっているのは周知の事実であります。

なぜかといったら、一つにはクリスマスのほうが華やかだからでしょうね。もう一つは、賛美歌などを含め、クリスマスにちなんだ歌もたくさんあって、すんなり分かりやすいということも大きな理由ではないでしょうか。

逆にいうと、お釈迦さまの誕生日である「花まつり」は、地味で分かりにくいということがいえますね。

でも、意義的には、お釈迦さまの誕生日は歴史的にもクリスマスより古く、深い意味合いがたくさんあります。その中でも特に大きな意義は「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん」があげられると思います。

これは、お釈迦さまが誕生した直後、東西南北に7歩ずつ歩いて、その後右手の一指し指で空を指し、左手の人差し指で地面を指し「天上天下唯我独尊」とおっしゃられたと伝えられているのですが、まぁこれは作り話でしょうけれども、つまり、この意味は直訳したら「この世で唯一人、自分が尊い」ということですが、たんにそういうことのみでなく、要するに、一人ひとりが尊い存在なのだという意味がこめられているのだと、仏典では伝えられています。

仏教とはそもそも、一個人が仏に成る(成仏)ことを目的とした教えであり、そのことをフィーチャリングするために「天上天下唯我独尊」という話が後付けでできたものと推察できます。

お釈迦さまの誕生日「花まつり」を迎えるにあたり、自分を卑下することなく、一人ひとりが尊い存在なのだということに思いをめぐらす機会にしたいものであります。

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これぞ仏教

久しぶりに小生のメインページ(といっても、こちらのブログのほうがすっかりメインっぽくなりましたが;)の仏教のページを更新しました。↓



この仏教のページに、新たに「六波羅蜜(ろくはらみつ)」をアップしたのですが、この六波羅蜜の一番目にあるのが「布施」というものでありまして、改めて気付かされたことがありました。(この六波羅蜜および布施の詳細については、ぜひ当該ページをお読み頂けたら幸いです)

それは、仏教ではよく煩悩を滅するということがいわれますが、現実には煩悩を完全に消滅させることは不可能です。このことは以前にも書いたことがありますが、五感あるいは六感が備わっている肉体がある以上、つまり、生きている以上は、三大欲望(食欲、性欲、睡眠欲)を始めとして、さまざまな欲望があって当然であり、それをなくそうなどと努力することすら無駄なことであることは説明の余地もありません。

ならば、欲望つまり煩悩を滅するとはどういうことかといえば、煩悩を認め、それを自由自在に制御できるようになること、平たくいえば理性的・精神的にオトナになること、ということがいえると思います。

では、どうやったらそんなオトナになれるのかというと、それを説いているのが布施の精神であります。見返りを求めない奉仕の心でいろいろな行ないをすることです。

具体的には、街角や駅前で街頭募金に立っている学生がいたら、百円でも十円でも募金箱に入れてあげる、電車の中でお年寄りが立っていたら席を譲ってあげる、通勤や通学途中、ごみが落ちていたら拾ってあげる、などなど。

しかし、これらの行ないも、実際その場面に出くわしたら勇気が要りますよね。なぜかというと、人目が気になるからです。ならば、人目を気にせずにできる布施からやってみるというのはいかがでしょうか。それは「祈る」ということです。

街頭募金に立っている学生がいたら、心の中で「ご苦労さまだなぁ」と思う、そうすると、自分の近くを歩いていた見知らぬ誰かが募金箱にお金を入れてあげたりします。電車の中でお年寄りが立っていたら「かわいそうだなぁ」と思う、そうすると隣の席のお兄さんが席を立って譲ってあげたりします。通勤や通学途中、ごみが落ちていたら「誰か拾ってくれないかなぁ」と思う。そうするとどこからともなくカラスが舞い降りてきて・・・って、そんなことはないか(^^;

こんな話があります。

あるお殿様が、あるお坊さんに
『「これぞ仏教」ということを教えて頂きたい。』
と願い出ました。お坊さんは言いました。
『悪い行ないをせず、善い行ないをすることによって、自分の心を清めていくこと。これぞ仏教。』
お殿様は言いました。
『そんなことは、年端もいかぬ子供でも知っていることではないか』
それに対し、お坊さんはこう言いました。
『年端もいかぬ子供が知っていることでも、実際に行なうとなると、八十過ぎのご隠居さんでも難しいのじゃ』

どんな簡単なことでも、実際に行なうことの難しさをお説教されたわけです。できることから実践するという気持ちを持ち続けたいものです。

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2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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