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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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生まれ変わりについて

「人の生を受くるは難く、やがて死すべき者の今生命(いのち)あるは有り難し」

法句経(ほっくきょう)という、原始仏典の中でも特に、お釈迦さまが語られた言葉をそのまま文字に著わしたという経典の一節である。

受け難き生を受けたということがまず有難いということと、いずれ死ぬ身であるからこそ、今、生きて(生かされて)いることが有難い、という2点が述べられていると受け止めることができる。

さて、そもそも仏教では「生まれ変わり」というものが有るとも無いとも明言してはいないのだが、さまざまなお経を読むと、結果的に「生まれ変わり」は有るということを認めているといえる。

たとえば、お釈迦さまは、過去世において、飢えたトラに対して自分の身体を与えたとか、ご自身がウサギだったときは、飢えに苦しむ人に、自分の身体を焼いて捧げたとか、師匠であった仙人に対して、ご自身の身体をイスの代わりにして頂いた、などという事柄が仏典や経典に記されていることから伺える。

(このことから、生まれ変わりというのは当たり前のことなので、明言すらしていないと解釈することもできる。)

前回触れた「生きがいの創造」という著書の中の、臨死体験についてのレポートなどを読むと、たしかに生まれ変わりということが現実に起きているということを認めざるをえない感じがする。

ならば、なぜ生まれ変わるのかということになるが、「生きがいの創造」の中では、前世でやり残した課題に取り組み、それによって霊格を向上させるためということがいわれており、さらに仏教では、より積極的に、この世において悩み苦しむ人々を救うために志願して生まれ変わるのであるということを説いている。

霊格を向上させる、悩み苦しむ人々を救う、といっても、その表われ方は直接的、指導的な姿ばかりでなく、心身的にさまざまなハンディキャップを背負う場合もあり、その姿をさらすことによって自身の霊格向上や他を救うことにつながるということもある。

また、課題を未解決のまま今世での生を終えた場合は、その課題は来世に持ち越され、自分の霊格が向上しないうちは、ずっとその課題が続くようである。

つまり、たとえば自殺をした場合、それはなんの解決にもならず、逆に、自分の身を殺生した罪をプラスアルファとして背負うことになり、来世、はるかに大きな課題となって自分の身にのしかかることになる。

このように考えると、今現在、実際にいろんな問題に直面している人にとっては、辛いことのように受け取られそうだが、それは実は、霊格を向上させるチャンスに差し掛かっているということである。

死んでしまえば全てが終わり、ということならば、太く短く、自分さえよければいいという人生を送ればよさそうなものであり、たしかにそのような生き方をしている人も少なからずいるようではあるが、ほとんどの人は、よりよい人生を生きたいと願っている。

それはつまり、生命は今世だけのものではないということを誰しも直感として感じ取っているからではなかろうか。

生まれ変わりは「有る」ということを大前提として、人間らしい正しい生き方について考えていきたいと思う。

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人のためとは?

「生きがいの創造」(著:飯田史彦氏、PHP文庫)という本を読んだ。

いや、読んでる途中です。もう3~4年も前に、ある一人の尊敬する先輩から薦められてとりあえず購入したのですが、始めの方をパラパラめくって、なんとなくムズカシイ感じがして、そのうち気が向いたら読もうと思って「積読(つんどく)」になってました。

先日、ふと本棚に目を向けたときに「そういえばこの本、買ってからゼンゼン読んでなかったナァ」と思い、手にとって最初のページから読んでいってみたところが・・・、なんと表現してよいのやら、「スゴイ!」という言葉しか思い浮かびません。

全部で400ページ程のうち、最初から160ページぐらいまで読んだ内容は、生まれ変わりを実感した人の多くの事例を調査・研究し、その結果、その人達のその後の人生がどのように変わったかということのレポートなのですが、とにかくもうほとんどが、明るく、前向きな生き方に変わっておられるのです。なぜそうなるかという理由にもとても共感でき、私自身も生きるパワーを頂いた感じになりました。

もう一つ気付いたことで、よく、「世のため人のため」ということがいわれますが、よくよく考えると、じゃあ、人のために何をするのか?と聞かれたときに、従来までは明確な答えを出せませんでした。

人のためにすることっていったらもちろん善いことをするのだ ~ じゃあ、善いことって何? ~ 親切にするのだ ~ じゃあ、何が親切? ~ 人に喜んでもらうことをするのだ ~ じゃあ、何をすると喜んでもらえるの? ~ そりゃあ、人にとって善いことをするのだ ~ だから、善いことって何?・・・ってな具合。

それがね、判ったんですよ。人のためにすること、それは、愛することなんだって。

人のため、人の為・・・にんべん(イ)に為と書くと「偽」ですよね。ただ単に「人の為」といったら、それは、いつわり、にせものであるわけです。何をいつわるのか、それは自分を偽るのですね。

人を愛すること、それは人のためでありながら、結局は自分のためであるわけです。自分の魂を輝かせる行為、とでもいうんでしょうか、そういうことです。

これに気付けたとき、とても心が軽くなった気がしました。いつも妻を怒らせてばかりいた自分でしたが、今日はなぜか、お互いとても穏やかな、思いやりのある会話ができました。

そして、今までさんざん勉強してきていながら、仏の慈悲心ということも判ったつもりになっていて、実はよく判っていなかったんだなぁということにも気付けました。

しかし、まだまだこれから。肝心なところの糸口をやっと見つけたって感じでしかないので、日常実践に精進したいと思います。とにかく「生きがいの創造」に感謝です。

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自信と自惚れ

「自信」について調べてみた。

goo辞書には、次のように解説されていた。

「自分の才能・価値を信ずること。自分自身を信ずる心。」

特に、自分の価値という意味では、自分自身で良いと思える点も悪いと思える点もひっくるめて認めるということが大事なことでしょう。

また、ウィキペディアには、「自尊心」という項目のところに「自信とは、自尊心をもつこと」といった主旨の解説があった。

仏教的な悟りということについていろいろ学んできているが、仏性に気付くということが最重要課題ではあると思うが、それは同時に、できない自分、ダメな自分にも気付き、認めるということが、「悟り」の中に含まれているかもしれない。

そして、ほんとうに、自分のいい所にもそうでないところにも気付けた人は、同様の視点で他人を見ることができる、ということもいえそうである。ここのところが、拙のブログタイトルでもある、人にやさしくできるように自分にもやさしくできるという大きなポイントであると信じたい。

つまり、自分と他人のどちらかにだけ厳しいというのは、その片方に対するやさしさは、ほんとうのやさしさからズレが生じるのではないかという感じがする。

少々話しがズレたが、自信に類する言葉に「自惚れ(うぬぼれ)」というのがある。

goo辞書で「自惚れ」を調べてみたところ、「うぬぼれること」としかなかったので、またウィキペディアで調べてみた。「自惚れ」とは、「自分を過大評価すること」といった主旨の解説があったが、まさにその通りであろう。

自分を過大評価する人は、どうやら、他人を過小評価する傾向が生じるようであり、結果、自惚れている人というのは、いわゆる「ういた」存在になりやすい。

しかし、字を見ると、自惚れとは「自分に惚れる」という表現になっており、少々の自惚れならゆるされてよさそうな感じもする。

いずれにしても、冒頭の話に戻るが、自信ということは、自分のいいところもそうでないところも認めることから出発するという意味において、簡単に自分を卑下したり否定したりせず、ありのままの自分(もしくは他人)を認めることを推奨したいし、私もそのような意識を常に持ちながら、日々生活していきたいと思った。

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不完全ゆえの向上心

今日もいい話を聞いたのでメモっておきます。

「魚は水を知り尽くしているがごとく泳ぐ。鳥は空を知り尽くしているがごとく飛ぶ。しかし、完全に知り尽くしているわけではない。なぜなら、酸欠で死んでしまう魚もおり、つむじ風に巻き込まれ地面に墜落してしまう鳥もいるからだ。」

これを人間にあてはめると、世間を知り尽くしている人間はいないということを物語っている。誰もが不完全でありながら生きているということになる。

霊性に目覚めることをスピリチュアリズムというようである。さらに、神性に目覚めることをネオスピリチュアリズムというようである。ひっくるめて、仏教では、仏性に目覚めることを悟りという。

以前にも書いたように、お釈迦さまが説いた「人生は苦である。苦が常態である。」ということも一つの真実であり、たとえ「悟った」としても、さまざまな苦と直面しながら生きていかなければならないのが人生である。

ようするに、自分の内なる霊性や神性や仏性に目覚めればそれで完了というのではなく、ようやく、正しくもしくは楽に生きようとするスタート地点に立ったにすぎないということがいえる。

このように考えると、「悟り」というものの中には、「自分はどこまでも不完全であるということに気付く」という意味も含まれているような気がする。

不完全であることの自覚ができてこそ向上心が芽生え、まさに一段ずつ階段を登るがごとく、成長し続ける。これがそもそもの人間らしい生き方なのだとはいえないだろうか。

仏性という、自分の尊さに目覚め、認めることはとても大事なことだが、同じ程度に、自分の不完全さを認めることも大事なことであるかもしれない。

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本来無一物

前回、禅問答を一つ紹介させて頂いた。もう一つ、これぞ禅の(というより仏教の)真髄と思わせられるような問答をご紹介したい。

~五祖弘忍(ぐにん)禅師は、そろそろ弟子の一人に、初代達磨(だるま)大師から受け継いだ禅法を継がせたいと思い、弟子たちがそれぞれ修行を重ねた心境を詩で表してみよと告げた。その中でこれぞ秀逸と誰しもを唸らせた詩を書いたのが高弟の一人、神秀(じんしゅう)だった。

その詩の内容は次のようなものである。

 身是菩提樹   身は是(これ)菩提樹(ぼだいじゅ)

 心如明鏡台   心は明鏡台(めいきょうだい)の如(ごと)し

 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしょく)し

 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ

意味は、「この身は悟りを具える大樹であり、心は清浄で美しい鏡のようなものである。常に汚れぬように拭き払って、煩悩のチリやホコリが付着しないようにしなければならない」といった内容。

門弟たちは誰しもが絶賛したが、師の弘忍は、ただ沈黙しているだけである。

そんな中、その詩を見た典座(てんぞ:修行僧たちの食事係)の慧能(えのう)が、「こんな詩は禅の精神ではない」と言い放ち、次のような詩を書いた。

 菩提本無樹   菩提本(もと)樹(じゅ)無し

 明鏡亦非台   明鏡もまた台に非(あら)ず

 本来無一物   本来無一物(ほんらいむいちもつ)

 何処惹塵埃   何れの処にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん

意味は、「本々悟りを具える樹などというものは無い。心も鏡などではない。本来、一切の物が無いのである。したがって、チリやホコリなども付着しようがないのだ。」

門弟たちは、「なんて乱暴なことを言うのだ!」と驚き、慧能を非難するが、師の弘忍は慧能に軍配を上げた。かくして、初代達磨から受け継がれた禅の法灯は慧能に継がれることになり、慧能が六祖となった。~


本来無一物ということをよくよくかみしめると、極めて広大無辺でありながら極めて現実的な意味を含んでいることが伺える。

悟りとは、どこか遠いところにあり、悟るということは、なにか特別な存在に変身するような印象を受けそうだが、そうではない。禅では、悟りは久遠の過去から悠久の未来まで、常に「いまここ」にあると説く。

自分は本々神仏と同じなのだということに気付きさえすればいい。

そして、そのことに気付いた人は、いよいよ神仏と同じ働きをもって行動したくなるのである。

知らず知らずのうちに、モノ、カネ、権威その他さまざまなあやふやなものに執着したり依存したりしてしまいがちな部分は誰しも持っているのは、いた仕方ないことであり、それが結局、本来の尊い自己に気付けない障壁になっているように思われるが、本来無一物ということに時々思いを巡らしてみて、自分ひいては全ての命の尊さということをしっかり見つめてみることが大事なことであると考える。

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アカシックレコード

アカシックレコードについて調べてみた。

とりあえず、ウィキペディアには次のように説明されている。

~アカシックレコード(Akashic Records)は広大な宇宙の涯てに存在するとされる、人類の過去から未来までの、意識上にのぼる歴史全てが記録されているデータバンク。アカシャ(Akasha)ともよばれる。アカシャはサンスクリットで「空」「宇宙」「エーテル」を意味する。~

その他、アカシックレコードで検索すると、実にいろいろなサイトがヒットするが、主な意味は、ほぼ上記の説明に集約される。

さて、そのアカシックレコード、どこにあって、どうやったらアクセスできるのか、そもそも、アカシックレコードなるものにアクセスできると、なにがウレシイのか、という疑問が起きる。

仏教では、あらゆる現象はすべて「縁起」によって成り立っていると説く。仏教ではと断ったが、これは単なる思想や哲学ではなく、不偏の真理・法則であると考えられる。つまり、あらかじめ予定(プログラミング)されている未来などというものはないのである。仮に、未来は確定しているのだとしたら、その確定している未来を100%解説できる人がいるハズだが、歴史上、そんな人間は一人もでてきてはいない。

同様に、霊の存在とか死後の世界などということに関しても、認めたほうが都合がいいケースが多いというだけであって、だれもその存在を証明できる人はいない。信じるしかないのである。

ならば、そのようなことを追求するために時間を費やすのはもったいないのではなかろうか。そんなことより「ちゃんと生きる」ほうが、より有意義な人生が送れるというものである。

禅問答に、以下のようなものがある。

~入門したての僧が、趙州和尚に尋ねた。
「私は、修行に入ったばかりの者です。どうか、仏教の根本を教えてください」
「朝の食事は終わったのか。まだか」
「はい、食べ終わりました」
「それならば、自分の茶碗を洗いなさい」~


大事なのは、過去でも未来でもない、現在である。いまなすべきことを精一杯やる。それしかない。その積み重ねが人生である。一日は一生の縮図である。

・・・とまぁ、これも理想であり、現実はなかなかこうはいかない。無為に過ごしてしまう一日だってあるし、後退してしまうことだってある。しかし、このようなことを心に置きつつ、できるだけムダなことに時間を費やすことをやめて、より有意義な一日を積み重ねていくように心がけたいものである。

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生きがいとは?

四苦八苦という言葉がある。

元々仏教の言葉であるが、なにしろ「人生は苦である」とお釈迦さまは説かれており、さらに、「苦は常態なのである」と教えられている。

ふつうの生活において、悩み苦しみはイヤなことであり、異常な状態であり、できれば避けたいことであると思うのが人情であろうが、イヤだのなんだのいっても、苦は異常な状態どころか、ごく普通の状態なのだというのである。

さて、四苦八苦の四苦とは、生・老・病・死の四つを指しており、読んで字のごとく、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみということである。しかし、苦しみというのは常態であるから、逃げも隠れもムダなことであり、真正面から受け入れていくしか道は無い。(八苦については後日また気が向いたときにでも・・・(^^;)

ならば、どうすれば苦しみを克服できるのかといえば、先に何度も書いていることであるが、元々人間には仏性という仏と同じ性質が備わっており、その仏性に気付くことがなによりもまず先決である。

仏性に気付けば、慈悲喜捨(前回のブログ記事を参考)の行動を自然に起こすようになり、特に他を喜ばせることが結局自分の喜びとなり、喜んでくれた人に感謝できるようになる。

つまり、悩んでいる人、苦しんでいる人に手を差し伸べ、その結果、その人が救われ、喜ばれたとしたら、もちろんその人は私に感謝をされるであろうが、同時にその人は、この私に、慈悲喜捨の行ないをさせてくださった人ということになるわけであり、そこに感謝の念が交流する。この積み重ねが生きがいになるとはいえないだろうか?

苦しみだと思っていた生が、喜びに転換されるわけである。同様に、老いる、病む、死ぬということも、苦しみばかりではなく、人との縁によっては喜びに転換させることもできるのである。

精一杯生き、いずれ年老い、いずれ病気にもかかり、いずれ死がおとずれるのが人生なのだという覚悟が大事であろうし、死ぬ間際、いい人生だったと思えるためには、やはり人のためにいいことをし、感謝したりされたりする生き方が一番いい生き方であるということが理解できる。

とにかく、仏さまのマネをすることから始めるのもいいかもしれない。

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慈悲

キリスト教でいうところの「愛」に相当するのが、仏教でいう「慈悲」である。

もっと詳しくいえば、「慈悲喜捨(じひきしゃ)の心」を略したのが「慈悲」である。慈悲喜捨とは、それぞれ以下のような意味がある。

慈とは、楽を与えてあげたいと思う心。

悲とは、苦しみを取り除いてあげたいと思う心。

喜とは、人の幸せを共に喜ぶ心。

捨とは、人に施した恩も、人から受けた害も忘れ、一切の報いを捨て去る心。

以上の四つの心を「四無量心(しむりょうしん)」といい、いわゆる仏性を詳しく分析した心である。そして、この仏性=四無量心は、善人であろうが悪人であろうが、どんな人の心にも備わっているのである、とお釈迦さまは説いている。

「自分にはそんな心はない」とか、「あの人にはそんな心があるとは感じられない」と思う人もたくさんおられるだろうが、それは、ただ単に「気付いていない」というだけに過ぎない、とお釈迦さまは説く。

では、どうすれば自分の、そして他人の「四無量心」に気付くことができるかというと、結局のところ、慈・悲・喜・捨の行ないを、ちょっとずつでも実行してみることによって、ちょっとずつ気付くことができるのだそうだ。

足元のことから、目の前のことから、まずはできることから実行していきたいと思う。

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救われるとは?

「信じるものは救われる」という言葉がある。

ある著述家は「信じるものに救われる、という言い方のほうが正しい。」ということをおっしゃられていたが、たしかに、より的確な表現であるように受け取ることができそうだが、五十歩百歩でしょう。

フィーチャリングしたいのは「救われる」ということ。

さまざまな悩み苦しみや問題が解決したとき、「救われた」と感じる場面は多々ある。しかし、また別の問題が出てくると、「救われた」と感じた気持ちはいっぺんで無くなってしまい、またそれが解決すると「救われた」と思うだろう。

これの繰り返しが人生なのだといってしまえばそれまでだが、本当の意味で「救われる」というのは、ずっと深いところにあるようだ。

以前にも何度か書いていることだが、人間には仏性(ぶっしょう)という、神仏と全く同じ性質が元々宿っており、自分の仏性に気付くことが仏教で説かれる究極の教えである。

神仏と同じ性質=仏性というのは、簡単にいえば「他を救いたい」と思う心である。苦しんでいる人、困っている人、問題を抱えている人をみたら助けずにはいられない、しかし、その問題が自分にも手におえない大きなものだったら、直接助けることができなくても、どうか助かってほしいと念じるような心である。

つまり、究極的な意味で「救われる」というのは、「自分の、そして他人の仏性に気付く」ということになる。

さて、ではどうやったら「仏性に気付く」ことができるのか。仏教的に数ある手段の中で一番実践的なのは、家族でも友人・知人でもアカの他人でも、さらには自分をも含めて、人のアラ探しをすることをやめて良い所を見つける努力をすることである。

他人を蔑んだり、自分を卑下したりすることはやめたほうがよい。大勢の先輩諸兄が実践し、証明されていることでもある。

少しずつでも実践することを続けていけば、自分や他人の尊い仏性に気付けるであろうし、そのことを信じたい。これこそが「信じるものは救われる」の本当の意義ではないだろうか。

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彼岸

9月に入り、今月は秋彼岸の月でもある。

彼岸は、ご存知の通り、春分の日と秋分の日を中心に前後3日間、供養が執り行われる日本古来の仏事である。

彼岸は、元々、春分点、秋分点という日が、昼と夜の長さが同じになる日であり、太陽が真東から昇り、真西に沈むという道が「白道(びゃくどう)」と呼ばれ、西方極楽浄土へ通じる道であるという思想に基づき、此岸(迷い多き此(こ)の岸)から彼岸(極楽浄土である彼(か)の岸)に亡き御霊を渡らせたいという願いが、その起源になっているといわれている。

さらに彼岸を掘り下げると、正確には「到彼岸(とうひがん)」、彼岸に到るということばを略したもので、これは、サンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」という仏教のことばを漢訳したものである。

波羅蜜多には六つの段階があり、すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つで、これを大乗仏教では「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼ぶ。

仏教つまりお釈迦さまの教えは、最終的に仏の智慧を獲得する、仏に成るということを目的とする教えであるが、その一つの手段として説かれたのがこの「六波羅蜜」である。

布施とは、現代的にはモノや金をお寺などに施すことという意味にとられるが、もともとは、自分を省みず、他のために尽くすことをいい、現代的には「奉仕の精神」と置き換えてよい。

この布施の精神がキチンと確立されて、次に続く持戒(じかい:自分の身をつつしむこと)、忍辱(にんにく:ヤセ我慢とは違う、忍耐、辛抱のこと)、精進(しょうじん:心を乱さず、一心に励むこと)がそれぞれクリアでき、禅定(ぜんじょう)という、心を静め、ありのままの自分を見つめ、仏と同じ悟りを得るための精神を養うことができ、最終的な仏と同じ智慧に達することができるのであると説かれる。

要するに、彼岸とは、亡き先祖や知人の御霊を供養するという行為と共に、自分自身の中に眠る仏性を目覚めさせるという意味も含まれているのである。

「今日彼岸 菩提の種を 蒔く日かな」(松尾芭蕉)という句がある。菩提とは、「仏さまのようになりたい!」と願う心である。

年がら年中、こんなことを意識しながら生活するのも困難と思われるが、せめて年に2回、春と秋の彼岸の折には、このようなことに思いを馳せて日本古来の行事にいそしむのもよいのではないでしょうか。

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