2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を備え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。
鍵山秀三郎さんという方をご存知でしょうか?このかたは、株式会社ローヤル(現イエローハット)の創業者で、<日本を美しくする会>というNPO法人の相談役を務めておられる方です。
鍵山氏の人となりについては、こちらをご覧になるとよくお分かり頂けると思います。
→ <鍵山秀三郎氏 「経営と人生 問答塾」>
鍵山氏は、イエローハットを創業する以前から、40年以上も掃除を、特にトイレ掃除を続けられているのだそうです。イエローハットの従業員さんですら、会社のトイレ掃除をしている人がまさか我が社の社長だとは気がつかなかったというエピソードもあります。
掃除というのは、いままでは単に汚れを取り除くこと、という認識しかありませんでしたが、どうもそれ以上に重大な役割というか効果があるようです。つまり、目に見える汚れを取り除くということと同時に、自分の心の汚れを取り除くものである、ということです。
特にトレイ掃除は、その効果は絶大で、トイレ掃除を続けることによってキレイとかキタナイという意識を超越し、食べ物の好き嫌いだけでなく、対人関係においても好きとか苦手という意識をなくすことができるというのです。
さらに、以前にも紹介したことのある<小林正観氏>は、著書の中で、トイレ掃除をすると金回りがよくなる、とおっしゃっておられます。これはさすがにそのメカニズムは分かりませんが、体験されておられる方が大勢いらっしゃることも事実のようです。
要するに、自分の心の汚れを取り除き、物に対して感謝の心を養うことを目的とする掃除ならば、汚れているから掃除をするという意識ではなく、毎日繰り返したんたんと行うものである、ということになります。
仏典に出てくるお釈迦様のお弟子さんでシュリハンドクという人がおられますが、この人はおつむのほうが少々弱く、自分の名前すら覚えられないという人でした。この人は、そんな自分が情けなくなり、こんな自分では仲間にも迷惑をかけるし、仏道修行を続けることはできないとお釈迦様に泣きながらうったえます。お釈迦様は、それならばということで、「塵を払わん、垢を除かん」という言葉だけを唱えながら毎日庭の掃除をするようにと指導したそうです。シュリハンドクは、この「塵を払わん、垢を除かん」を必死で覚え、くる日もくる日もその言葉を唱えながら掃除を続けたところ、ある日、「塵や垢というのは、実は自分の心の塵や垢のことであったのだ」ということに気付き、お釈迦様と同じ悟りを得ることができたのだそうです。
去年あたりから私自身も自宅のトイレ掃除は毎朝行っておりますが、たしかに気持ちがいいものです。10年も20年も、かつ楽しく有難くなれるよう続けていきたいと思います。
鍵山氏の人となりについては、こちらをご覧になるとよくお分かり頂けると思います。
→ <鍵山秀三郎氏 「経営と人生 問答塾」>
鍵山氏は、イエローハットを創業する以前から、40年以上も掃除を、特にトイレ掃除を続けられているのだそうです。イエローハットの従業員さんですら、会社のトイレ掃除をしている人がまさか我が社の社長だとは気がつかなかったというエピソードもあります。
掃除というのは、いままでは単に汚れを取り除くこと、という認識しかありませんでしたが、どうもそれ以上に重大な役割というか効果があるようです。つまり、目に見える汚れを取り除くということと同時に、自分の心の汚れを取り除くものである、ということです。
特にトレイ掃除は、その効果は絶大で、トイレ掃除を続けることによってキレイとかキタナイという意識を超越し、食べ物の好き嫌いだけでなく、対人関係においても好きとか苦手という意識をなくすことができるというのです。
さらに、以前にも紹介したことのある<小林正観氏>は、著書の中で、トイレ掃除をすると金回りがよくなる、とおっしゃっておられます。これはさすがにそのメカニズムは分かりませんが、体験されておられる方が大勢いらっしゃることも事実のようです。
要するに、自分の心の汚れを取り除き、物に対して感謝の心を養うことを目的とする掃除ならば、汚れているから掃除をするという意識ではなく、毎日繰り返したんたんと行うものである、ということになります。
仏典に出てくるお釈迦様のお弟子さんでシュリハンドクという人がおられますが、この人はおつむのほうが少々弱く、自分の名前すら覚えられないという人でした。この人は、そんな自分が情けなくなり、こんな自分では仲間にも迷惑をかけるし、仏道修行を続けることはできないとお釈迦様に泣きながらうったえます。お釈迦様は、それならばということで、「塵を払わん、垢を除かん」という言葉だけを唱えながら毎日庭の掃除をするようにと指導したそうです。シュリハンドクは、この「塵を払わん、垢を除かん」を必死で覚え、くる日もくる日もその言葉を唱えながら掃除を続けたところ、ある日、「塵や垢というのは、実は自分の心の塵や垢のことであったのだ」ということに気付き、お釈迦様と同じ悟りを得ることができたのだそうです。
去年あたりから私自身も自宅のトイレ掃除は毎朝行っておりますが、たしかに気持ちがいいものです。10年も20年も、かつ楽しく有難くなれるよう続けていきたいと思います。
私たちはよく、初詣などで神社・仏閣などにお参りに行き、いろんなお願いごとをします。受験合格、家内安全、無病息災、商売繁盛などなど。けっして間違っているわけではないのですが、もっと崇高なお参りの仕方というのがあるそうです。
お願いごとをするためにお参りにいくならまだしも、拝観料を払って、お堂や仏像・菩薩像などを見るためのたんなる観光として行くこともあるわけですが、いわゆる「見物」だけに終わってしまっては、これまた誠にもったいないことのようです。
仏や菩薩と呼ばれる方々は、皆それぞれ願いを持っておられます。簡単にいえば、人の悩み苦しみを取り除いてあげたい、幸せになってもらいたい、という願いです。特に、その頂点である仏の願いは何かというと、「人を仏にしたい」ということであります。
受験合格、商売繁盛などの願いは、それはそれでよいのですが、仏の願いからすれば非常にちっぽけなことのようです。
つまり、仏の願いである「人を仏にしたい」ということに沿うためには、そこまで願ってくださっている仏に対して「ありがとうございます」という感謝と、私たち自身が自ら「仏になりたい」という願いを持つということが、神仏の御心に最も適ったお参りの仕方である、ということだそうです。
仏になりたいという願いを起こすことを、お経の中には「発菩提心(ほつぼだいしん)」と説かれていますが、この「感謝」と「発菩提心」をもって神仏にお参りをする、このことを心がけたいと思います。
お願いごとをするためにお参りにいくならまだしも、拝観料を払って、お堂や仏像・菩薩像などを見るためのたんなる観光として行くこともあるわけですが、いわゆる「見物」だけに終わってしまっては、これまた誠にもったいないことのようです。
仏や菩薩と呼ばれる方々は、皆それぞれ願いを持っておられます。簡単にいえば、人の悩み苦しみを取り除いてあげたい、幸せになってもらいたい、という願いです。特に、その頂点である仏の願いは何かというと、「人を仏にしたい」ということであります。
受験合格、商売繁盛などの願いは、それはそれでよいのですが、仏の願いからすれば非常にちっぽけなことのようです。
つまり、仏の願いである「人を仏にしたい」ということに沿うためには、そこまで願ってくださっている仏に対して「ありがとうございます」という感謝と、私たち自身が自ら「仏になりたい」という願いを持つということが、神仏の御心に最も適ったお参りの仕方である、ということだそうです。
仏になりたいという願いを起こすことを、お経の中には「発菩提心(ほつぼだいしん)」と説かれていますが、この「感謝」と「発菩提心」をもって神仏にお参りをする、このことを心がけたいと思います。
<第22期竜王戦>がいよいよ始まりました。
前期、ついに史上初の永世竜王資格を獲得した現渡辺竜王に挑戦するのは、十八世名人の資格をもつ森内九段です。渡辺竜王に竜王五連覇のきっかけを作ったのが、ほかならぬ森内九段であり、その雪辱を果たせるかという点でも楽しみなカードであります。
お互い居飛車の本格派ですが、森内九段はたまに振り飛車も指しますので、七番勝負の中でどのように絡めてくるかという点でも見ものです。渡辺竜王も、<順位戦>はB級1組ですが、現在B1の上位に位置しており、A級昇格となれば永世竜王の称号にふさわしい棋士と賞賛されるのも間近といったところでしょうか。
前期の渡辺vs羽生に次ぐ名勝負が期待できる大一番です。
前期、ついに史上初の永世竜王資格を獲得した現渡辺竜王に挑戦するのは、十八世名人の資格をもつ森内九段です。渡辺竜王に竜王五連覇のきっかけを作ったのが、ほかならぬ森内九段であり、その雪辱を果たせるかという点でも楽しみなカードであります。
お互い居飛車の本格派ですが、森内九段はたまに振り飛車も指しますので、七番勝負の中でどのように絡めてくるかという点でも見ものです。渡辺竜王も、<順位戦>はB級1組ですが、現在B1の上位に位置しており、A級昇格となれば永世竜王の称号にふさわしい棋士と賞賛されるのも間近といったところでしょうか。
前期の渡辺vs羽生に次ぐ名勝負が期待できる大一番です。
またもや出張続きでたいへん間が空いてしまいました。で、いつのまにか、王位戦は深浦王位が3連敗の後4連勝して防衛、王座戦は羽生王座が3連勝で防衛と、ひとまず安泰のような結果に終わりました。
さて、最近また印象に残った話を聞いたのでメモっておきます。
人間が生きる上で大事なことを、漢字一文字で表現するとしたらどんな文字が挙げられるかということで、それは「畏(おそれ)」という文字であるというのです。神仏に対する畏敬などという言葉の畏という字です。この畏ということを忘れると、人間はどんどん暴走してしまうというのです。
聞いた話を一言でまとめると以上のようなことですが、畏を忘れて暴走してしまっているというのは、まさに今この混迷した世の中の状態をいっているようにも感じられます。
歴史を振り返ると、エジプト文明は3,000年以上続きましたが、それは太陽を神と崇め、太陽歴を確立させ、太陽を中心に皆が協力し合って生活していたからなのだそうです。そのエジプトを滅ぼした主な王朝はマムルーク朝だそうですが、マムルーク朝は人間中心、実力主義の思想で発展し、君主も世襲ではなく実力者が就いていました。しかし、そのマムルーク朝が栄えたのは300年にも満たない短い期間であり、やがて、より強大なオスマン帝国に滅ぼされることになります。
しかし、そのオスマン帝国も第一次世界大戦で敗戦し、約700年続いた帝国も、現在はトルコ共和国に集約されているわけです。
実力主義を完全に否定するわけではありませんが、どうも神仏を敬う心というものが根底にないと、人間は驕りがでてきて、そうなると怠け心が生じ、向上心が薄れ、やることが保守的になったり、形骸化してしまうようなことに陥りやすくなるように感じます。
神仏を敬う心とか、目にみえない現象を畏れる(恐れる)気持ちは誰しも元々もっているものであり、忘れてならない心であるように思います。
仏教では、すべての現象は、その人を困らせたり、苦しめたりするのでなく、あくまでその人を成長させたいために仏が出してくださるという受け止め方が大事と説いています。現実には困ったり苦しんだりすることは無くならないわけですが、今現在苦しんでいても、そのことをクリアしたとき、苦しんでいたことが有難い現象だったと気づけたという経験を大勢の人が持っていると思います。
神仏に対する畏敬の念を忘れないようにしたいと思います。
さて、最近また印象に残った話を聞いたのでメモっておきます。
人間が生きる上で大事なことを、漢字一文字で表現するとしたらどんな文字が挙げられるかということで、それは「畏(おそれ)」という文字であるというのです。神仏に対する畏敬などという言葉の畏という字です。この畏ということを忘れると、人間はどんどん暴走してしまうというのです。
聞いた話を一言でまとめると以上のようなことですが、畏を忘れて暴走してしまっているというのは、まさに今この混迷した世の中の状態をいっているようにも感じられます。
歴史を振り返ると、エジプト文明は3,000年以上続きましたが、それは太陽を神と崇め、太陽歴を確立させ、太陽を中心に皆が協力し合って生活していたからなのだそうです。そのエジプトを滅ぼした主な王朝はマムルーク朝だそうですが、マムルーク朝は人間中心、実力主義の思想で発展し、君主も世襲ではなく実力者が就いていました。しかし、そのマムルーク朝が栄えたのは300年にも満たない短い期間であり、やがて、より強大なオスマン帝国に滅ぼされることになります。
しかし、そのオスマン帝国も第一次世界大戦で敗戦し、約700年続いた帝国も、現在はトルコ共和国に集約されているわけです。
実力主義を完全に否定するわけではありませんが、どうも神仏を敬う心というものが根底にないと、人間は驕りがでてきて、そうなると怠け心が生じ、向上心が薄れ、やることが保守的になったり、形骸化してしまうようなことに陥りやすくなるように感じます。
神仏を敬う心とか、目にみえない現象を畏れる(恐れる)気持ちは誰しも元々もっているものであり、忘れてならない心であるように思います。
仏教では、すべての現象は、その人を困らせたり、苦しめたりするのでなく、あくまでその人を成長させたいために仏が出してくださるという受け止め方が大事と説いています。現実には困ったり苦しんだりすることは無くならないわけですが、今現在苦しんでいても、そのことをクリアしたとき、苦しんでいたことが有難い現象だったと気づけたという経験を大勢の人が持っていると思います。
神仏に対する畏敬の念を忘れないようにしたいと思います。
<第50期王位戦>、深浦王位vs木村八段の七番勝負は、深浦王位が3連勝し、なんとなんと3勝3敗の五分となりました。竜王戦に続き、王位戦までもタイトルホルダーが3連敗のカド番から4連勝で防衛ということになるのでしょうか。さすがは羽生キラー深浦王位といったところですが、心情的には、羽生四冠に次ぐ通算勝率2位を保持している、千駄ヶ谷の受け師、木村八段に奪取してもらいたい気持ちもあります。
一方、<第22期竜王戦>の挑戦者決定三番勝負のほうはというと、森内九段が深浦王位を下し、挑戦者に決定しました。森内九段は前期の名人戦で羽生四冠に破れ、現在無冠となっていますが、さらに遡れば、現在の渡辺竜王に竜王を明け渡したのも森内九段であります。その後、渡辺竜王は、5期連続で竜王を防衛し、見事永世竜王の称号を獲得したわけですが、その雪辱を果たすことができるかという点でも見ごたえがあります。
それにしても、トッププロの対局はほとんどが相居飛車。以前にも書いたことですが、振り飛車党のタイトルホルダーは久保棋王ただ一人であります。一時、将棋界を席巻した藤井システムも、その本家本元である藤井九段が、最近はたまに矢倉を指されたりと、どうも振り飛車が活躍している話をほとんど見たり聞いたりしていませんね。
しかし、私も好きでよく指すゴキゲン中飛車は、対居飛車には割といい勝率をあげていると思います。が、相振り飛車になるといまだに勝率が上がりません。いったい将棋における最強の定跡というのはあるのでしょうか。まぁ、ないんでしょうけど(笑)、やはり王道は居飛車ということなんですかね。
それでも、女流棋士ですが、出雲のイナズマの異名をとる里見倉敷藤花はほとんど中飛車しか指さないし、私もみならいたいと思います。
一方、<第22期竜王戦>の挑戦者決定三番勝負のほうはというと、森内九段が深浦王位を下し、挑戦者に決定しました。森内九段は前期の名人戦で羽生四冠に破れ、現在無冠となっていますが、さらに遡れば、現在の渡辺竜王に竜王を明け渡したのも森内九段であります。その後、渡辺竜王は、5期連続で竜王を防衛し、見事永世竜王の称号を獲得したわけですが、その雪辱を果たすことができるかという点でも見ごたえがあります。
それにしても、トッププロの対局はほとんどが相居飛車。以前にも書いたことですが、振り飛車党のタイトルホルダーは久保棋王ただ一人であります。一時、将棋界を席巻した藤井システムも、その本家本元である藤井九段が、最近はたまに矢倉を指されたりと、どうも振り飛車が活躍している話をほとんど見たり聞いたりしていませんね。
しかし、私も好きでよく指すゴキゲン中飛車は、対居飛車には割といい勝率をあげていると思います。が、相振り飛車になるといまだに勝率が上がりません。いったい将棋における最強の定跡というのはあるのでしょうか。まぁ、ないんでしょうけど(笑)、やはり王道は居飛車ということなんですかね。
それでも、女流棋士ですが、出雲のイナズマの異名をとる里見倉敷藤花はほとんど中飛車しか指さないし、私もみならいたいと思います。
出張続きでだいぶ間が空いてしまいました。3週間ぶりの更新であります。
第45回衆議院選挙は、いよいよというか、ようやくというか、自公連立政権から民主党に政権が交代されるという結果におわりました。しかし、もちろん大事なのはこれからであって、民主党に政権が変わっても政治の中身がいままでとなんら変わらないものであるようなら、また別の政党に代わっていただかなければなりません。今後の民主党の舵取りに期待したいところです。
さて、ちょっと話は変わりますが、先日、憲法の、特にその歴史について学ぶ機会があり、そのことを少し書きたいと思います。
日本に最初にできた憲法は、聖徳太子が制定した十七条の憲法であることは小学生でも知っていることでありますが、ではなぜ、憲法が制定されなければならなかったのかということについては、忘れている人がほとんどだと思われます。
日本の飛鳥時代、現在の中国に、大統一国家、隋が成立し、聖徳太子はその大国の文化を取り入れるべく、西暦600年に第一回の遣隋使を派遣します。隋に派遣された使徒は、隋の文帝から、日本の政治のあり方について問われますが、そのとき日本にはまだ憲法はなく、しどろもどろになってしまったというのです。その結果、当然ながら日本は隋から見下されることになります。
これではいかんということで、聖徳太子は603年から604年にかけて、冠位十二階と十七条憲法を制定することになります。特に十七条憲法は、それまですでに日本に輸入されていた儒教や仏教の精神を取り入れた内容となっており、607年の第二回遣隋使のとき、小野妹子がそれをひっさげて、ときの煬帝に謁見し、日本を国家として認めてもらえたというようなことが歴史書に記されています。
その後日本は、独自の国家文化を形成し、江戸時代には鎖国などの制度もありましたが、第二次世界大戦敗戦後の昭和22年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から提示された現在の日本国憲法を受け入れ、現在に至っております。
周知のとおり、日本国憲法の第9条は、戦争をしないという内容のものであり、これは、その背景をよくよく検証すると、GHQの提示を無条件に受け入れたということのみでなく、当時の日本国民が同意見であると大いに納得して受け入れたものであるようです。
聖徳太子の十七条憲法も、儒教や仏教を外国のご機嫌取りのために受け入れたわけではなく、儒教も仏教も、これはよい思想・教えであると納得して受け入れているのであり、聖徳太子自身が法華経などの解説書をたくさん著述していることからも伺えます。
つまり、よいものを取り入れて独自のものにしていくというのは、大昔から一貫して日本の国民性であるように思われます。
一方、見方を変えると、回りの意見に流されやすいという面もあるのかもしれませんが、とにかくよいものをよいと認め受け入れる柔軟性は、諸外国に誇るべきところであると感じます。柔軟性という性質は、進歩するのに大事な要素であると思います。
第45回衆議院選挙は、いよいよというか、ようやくというか、自公連立政権から民主党に政権が交代されるという結果におわりました。しかし、もちろん大事なのはこれからであって、民主党に政権が変わっても政治の中身がいままでとなんら変わらないものであるようなら、また別の政党に代わっていただかなければなりません。今後の民主党の舵取りに期待したいところです。
さて、ちょっと話は変わりますが、先日、憲法の、特にその歴史について学ぶ機会があり、そのことを少し書きたいと思います。
日本に最初にできた憲法は、聖徳太子が制定した十七条の憲法であることは小学生でも知っていることでありますが、ではなぜ、憲法が制定されなければならなかったのかということについては、忘れている人がほとんどだと思われます。
日本の飛鳥時代、現在の中国に、大統一国家、隋が成立し、聖徳太子はその大国の文化を取り入れるべく、西暦600年に第一回の遣隋使を派遣します。隋に派遣された使徒は、隋の文帝から、日本の政治のあり方について問われますが、そのとき日本にはまだ憲法はなく、しどろもどろになってしまったというのです。その結果、当然ながら日本は隋から見下されることになります。
これではいかんということで、聖徳太子は603年から604年にかけて、冠位十二階と十七条憲法を制定することになります。特に十七条憲法は、それまですでに日本に輸入されていた儒教や仏教の精神を取り入れた内容となっており、607年の第二回遣隋使のとき、小野妹子がそれをひっさげて、ときの煬帝に謁見し、日本を国家として認めてもらえたというようなことが歴史書に記されています。
その後日本は、独自の国家文化を形成し、江戸時代には鎖国などの制度もありましたが、第二次世界大戦敗戦後の昭和22年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から提示された現在の日本国憲法を受け入れ、現在に至っております。
周知のとおり、日本国憲法の第9条は、戦争をしないという内容のものであり、これは、その背景をよくよく検証すると、GHQの提示を無条件に受け入れたということのみでなく、当時の日本国民が同意見であると大いに納得して受け入れたものであるようです。
聖徳太子の十七条憲法も、儒教や仏教を外国のご機嫌取りのために受け入れたわけではなく、儒教も仏教も、これはよい思想・教えであると納得して受け入れているのであり、聖徳太子自身が法華経などの解説書をたくさん著述していることからも伺えます。
つまり、よいものを取り入れて独自のものにしていくというのは、大昔から一貫して日本の国民性であるように思われます。
一方、見方を変えると、回りの意見に流されやすいという面もあるのかもしれませんが、とにかくよいものをよいと認め受け入れる柔軟性は、諸外国に誇るべきところであると感じます。柔軟性という性質は、進歩するのに大事な要素であると思います。
最近学ばせて頂いたことの中から一つメモさせて頂きます。
『過去は変えられない、未来は変えられる』とは、世間一般の常識であり、誰もが納得できることだと思います。これは、もっと限定的な見方をすると、「行為」については、ということであります。つまり、過去にやってしまったことは変えようがないことはいうまでもなく、また、これから起こる未来については、まだ何もやっていないので、自分の意思でいかようにも変えられるということです。
さて、「行為」についてと書きましたが、もう一つの視点があります。それは「意識」ということです。あのとき、こんな風に思ってこう行動した、こういうことを考えていたのであんなことをやってしまった、という経験が誰にでもあると思われます。そこを、あのときもっとこういう考え方をしていれば、もっと違う行動がとれたハズ、それによって、もっと違った結果になったハズ、という思いになった経験も誰にでもあると思います。
それによって、現在の考え方を変えることができ、考え方が変わればおのずと行動も変えることができるわけなので、「意識」についてのみいえば、過去に思ったことは変えられる、といえることになります。
そして、その意識はどこに向かって変化・収束していくかといえば、これはもう何度も書いていることですが、仏教でいえば「仏性(ぶっしょう)」でありますし、キリスト教などでいえば「神の御心(かみのみこころ)」ということになるでしょうか。
つまり、人間、いや、生きとし生ける全てのものが「仏性」とか「神の御心」という一点に尽き進んでいくという捉え方からすると、未来は変えられない、というより、未来辿り着くところはそこに決まっている、ということにもなります。
全てそこに向かって「生かされている」ということが、仏教の捉え方の一つでもあります。
『過去は変えられない、未来は変えられる』とは、世間一般の常識であり、誰もが納得できることだと思います。これは、もっと限定的な見方をすると、「行為」については、ということであります。つまり、過去にやってしまったことは変えようがないことはいうまでもなく、また、これから起こる未来については、まだ何もやっていないので、自分の意思でいかようにも変えられるということです。
さて、「行為」についてと書きましたが、もう一つの視点があります。それは「意識」ということです。あのとき、こんな風に思ってこう行動した、こういうことを考えていたのであんなことをやってしまった、という経験が誰にでもあると思われます。そこを、あのときもっとこういう考え方をしていれば、もっと違う行動がとれたハズ、それによって、もっと違った結果になったハズ、という思いになった経験も誰にでもあると思います。
それによって、現在の考え方を変えることができ、考え方が変わればおのずと行動も変えることができるわけなので、「意識」についてのみいえば、過去に思ったことは変えられる、といえることになります。
そして、その意識はどこに向かって変化・収束していくかといえば、これはもう何度も書いていることですが、仏教でいえば「仏性(ぶっしょう)」でありますし、キリスト教などでいえば「神の御心(かみのみこころ)」ということになるでしょうか。
つまり、人間、いや、生きとし生ける全てのものが「仏性」とか「神の御心」という一点に尽き進んでいくという捉え方からすると、未来は変えられない、というより、未来辿り着くところはそこに決まっている、ということにもなります。
全てそこに向かって「生かされている」ということが、仏教の捉え方の一つでもあります。
またまた久しぶりの更新で、今回は将棋の話題です。
<将棋倶楽部24>のほうも、最近久しぶりに対局し、ちょっと珍しい棋譜が採れましたので<こちら>にアップしました。おヒマなときにどうぞご鑑賞くださいまし。
さてさて、将棋のタイトル戦が最近また盛り上がっております。<日本将棋連盟>のサイトもご覧になってみてください。
第50期王位戦が、現在、木村八段挑戦者が3勝1敗と、初のタイトル奪取に王手をかけております。羽生キラーの深浦王位も、千駄ヶ谷の受け師木村八段には苦戦しているというカンジでしょうか。
そして今日は、第22期竜王戦の挑戦者決定トーナメントで、羽生四冠と森内九段(十八世永世名人)の対局です。これまたビッグカードであります。とにかく羽生四冠には、永世七冠を目指して突っ走って頂きたいですね。

<将棋倶楽部24>のほうも、最近久しぶりに対局し、ちょっと珍しい棋譜が採れましたので<こちら>にアップしました。おヒマなときにどうぞご鑑賞くださいまし。
さてさて、将棋のタイトル戦が最近また盛り上がっております。<日本将棋連盟>のサイトもご覧になってみてください。
第50期王位戦が、現在、木村八段挑戦者が3勝1敗と、初のタイトル奪取に王手をかけております。羽生キラーの深浦王位も、千駄ヶ谷の受け師木村八段には苦戦しているというカンジでしょうか。
そして今日は、第22期竜王戦の挑戦者決定トーナメントで、羽生四冠と森内九段(十八世永世名人)の対局です。これまたビッグカードであります。とにかく羽生四冠には、永世七冠を目指して突っ走って頂きたいですね。
少し間が開きましたが、先日聞いた話をメモっておきます。
仏教学者(?)の毎田周一氏が説かれている内容で、他力の信心五箇条というのがあるそうです。以下の通り。
1.人の悪口を言わない
2.人を咎めない
3.人の恩を知る
4.人に教えない
5.人に恩を着せない
毎田氏は、特に親鸞上人に傾注されていたようなので、絶対他力という思想は浄土真宗で説かれている信仰形態のようです。
聞いた話は以上で、上記の五箇条についてそれほど詳しい解説などはありませんでしたので、以下は私の感想です。
仏の救いを信じて全てを仏に任せきる・・・西洋の一神教にも似た思想に感じますが、一点大きな違いがあります。それは、西洋の一神教の基本は、信じるものは救われる、逆にいうと信じないものは救われないということであるのに対し、仏教、特に浄土真宗の思想は、信じようが信じまいが既に救われている(生かされて生きている)ので、仏に対する感謝の意を込めて「南無阿弥陀仏」と唱えましょう、ということです。
浄土真宗の思想を理解すると、上記の五箇条の中で、「4.人に教えない」ということの意味は、「仏が人を教え導くのであるから、人が人に教える必要はない」というようにも受け止められます。
そうはいっても、現実の生活において、親は子どもに生活の基本を教えなければならないし、教師は生徒に学問や道徳を教えなければなりません。しかし、生活の基本や学問や道徳、さらには法律などをどれだけ勉強しても、それを守ったり、有効活用する心がなければ、それらを勉強したことにはならないわけです。もちろん、勉強は大事でありましょうが、それ以上に大事なのは心であるということです。
つまり「4.人に教えない」ということの真意は、俗世間のことがらについて教えないといっているのではなく、もっと深い、情操心とか信仰心のことをいっているのだと考えられます。
神仏を敬う心というものは、理屈を説明されて養われるものではないことは誰しも体験していることだと思います。では、どうしたら神仏を敬う心を養うことができるのか。それは、実際に神仏を敬う行為を、最初は形の上だけでも繰り返し実行してみるということが効果的であるようです。具体的な方法は、神社や仏閣、また宗派とか海外の寺院や教会でもいろいろ違いはありますが、とにかく(正しい)宗教の雰囲気に触れてみるというしかないようです。
幸い日本人は、初詣、お宮参り、お彼岸、お盆、クリスマスなどなど、宗教的イベントが生活に根ざしている民族でもありますので、折に触れ、神社やお寺にお参りにいって、神仏を敬う心を養うことが大事なことであると思います。
仏教学者(?)の毎田周一氏が説かれている内容で、他力の信心五箇条というのがあるそうです。以下の通り。
1.人の悪口を言わない
2.人を咎めない
3.人の恩を知る
4.人に教えない
5.人に恩を着せない
毎田氏は、特に親鸞上人に傾注されていたようなので、絶対他力という思想は浄土真宗で説かれている信仰形態のようです。
聞いた話は以上で、上記の五箇条についてそれほど詳しい解説などはありませんでしたので、以下は私の感想です。
仏の救いを信じて全てを仏に任せきる・・・西洋の一神教にも似た思想に感じますが、一点大きな違いがあります。それは、西洋の一神教の基本は、信じるものは救われる、逆にいうと信じないものは救われないということであるのに対し、仏教、特に浄土真宗の思想は、信じようが信じまいが既に救われている(生かされて生きている)ので、仏に対する感謝の意を込めて「南無阿弥陀仏」と唱えましょう、ということです。
浄土真宗の思想を理解すると、上記の五箇条の中で、「4.人に教えない」ということの意味は、「仏が人を教え導くのであるから、人が人に教える必要はない」というようにも受け止められます。
そうはいっても、現実の生活において、親は子どもに生活の基本を教えなければならないし、教師は生徒に学問や道徳を教えなければなりません。しかし、生活の基本や学問や道徳、さらには法律などをどれだけ勉強しても、それを守ったり、有効活用する心がなければ、それらを勉強したことにはならないわけです。もちろん、勉強は大事でありましょうが、それ以上に大事なのは心であるということです。
つまり「4.人に教えない」ということの真意は、俗世間のことがらについて教えないといっているのではなく、もっと深い、情操心とか信仰心のことをいっているのだと考えられます。
神仏を敬う心というものは、理屈を説明されて養われるものではないことは誰しも体験していることだと思います。では、どうしたら神仏を敬う心を養うことができるのか。それは、実際に神仏を敬う行為を、最初は形の上だけでも繰り返し実行してみるということが効果的であるようです。具体的な方法は、神社や仏閣、また宗派とか海外の寺院や教会でもいろいろ違いはありますが、とにかく(正しい)宗教の雰囲気に触れてみるというしかないようです。
幸い日本人は、初詣、お宮参り、お彼岸、お盆、クリスマスなどなど、宗教的イベントが生活に根ざしている民族でもありますので、折に触れ、神社やお寺にお参りにいって、神仏を敬う心を養うことが大事なことであると思います。
最終第5局までもつれこんだ<第80期棋聖戦>は、羽生棋聖が見事防衛を果たしました。
いやはや、正直ヒヤヒヤしましたが、第5局はさすが羽生四冠といった指し回しでありました。特に、控え室の検討陣の次の一手予想を覆し、コンピュータ将棋が予測した手を指すあたりは、羽生四冠ならではの指し手でありました。
今年は羽生四冠はしばらく対局はないようですが、将棋イベントや取材等でお忙しくなるとか。将棋ファンとしては大いに結構なことです。益々将棋界を盛り上げていって頂きたいですね。
さて、それにしてもトッププロの将棋は、本局のような横歩取りや一手損角換わり、早繰り銀、腰掛銀といった相居飛車の戦形が圧倒的に多いですね。タイトルホルダーの中では唯一、久保棋王ただ一人が振り飛車党。で、振り飛車といっても、多くはゴキゲン中飛車なんですよね。四間飛車や石田流は、トッププロには通用しなくなってしまっているのでしょうか。
かつての大山康晴十五世名人のような重厚な振り飛車を指す棋士が現れてくれたら、将棋もさらに盛り上がると思うんですけどねぇ。
いやはや、正直ヒヤヒヤしましたが、第5局はさすが羽生四冠といった指し回しでありました。特に、控え室の検討陣の次の一手予想を覆し、コンピュータ将棋が予測した手を指すあたりは、羽生四冠ならではの指し手でありました。
今年は羽生四冠はしばらく対局はないようですが、将棋イベントや取材等でお忙しくなるとか。将棋ファンとしては大いに結構なことです。益々将棋界を盛り上げていって頂きたいですね。
さて、それにしてもトッププロの将棋は、本局のような横歩取りや一手損角換わり、早繰り銀、腰掛銀といった相居飛車の戦形が圧倒的に多いですね。タイトルホルダーの中では唯一、久保棋王ただ一人が振り飛車党。で、振り飛車といっても、多くはゴキゲン中飛車なんですよね。四間飛車や石田流は、トッププロには通用しなくなってしまっているのでしょうか。
かつての大山康晴十五世名人のような重厚な振り飛車を指す棋士が現れてくれたら、将棋もさらに盛り上がると思うんですけどねぇ。
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将棋が趣味で、仏教を学んでいるフツウのおっさん(妻子持ち)ですv
実生活に生かせる仏教を追求していきたいと思っています。
2008年12月より仙台在住。
プロフィールの詳細は【こちら】。
BEACH宛メールは↓
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