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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   

震災の爪あと

先日、東京からのお客さまを、仙台城址(通称、青葉城)にご案内しました。震災後は初めてであり、城の石垣が一部崩落したという話も聞いておりましたので、ちょっと心配な気持ちもありました。

案の定、まず、仙台市内からの通常のルートが、石垣の崩落により、1年以上経った今も通行止めになっており、裏から回り込むルートとなっておりました。

でもまあ、平日であるにも関わらず、中学生の修学旅行や、外国人さんの観光客も大勢おり、仙台市内の定番観光地は、震災後もまずまず大丈夫だな、と思っていた矢先・・・なんかオカシイ、何かが足りない、ということに気付きました。

そう、あの昭忠塔のてっぺんに鎮座していたトンビ、あのトンビの姿が無いのです。

震災前の昭忠塔の写真はこちら↓



駐車場から公園に入り塔の正面にいくと、トンビがいない理由はすぐに分かりました。
震災後の写真がこちらです↓



幅6.7メートルもある青銅製の像が、20メートルもの頭上から落下してくるとは、改めて地震の大きさ、恐ろしさを実感いたしました。

一日も早く、復旧がなされることを祈るばかりです。

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存亡斉しく導く

3月11日、昨年の同日発生した東日本大震災から丸1年が経ちました。そして、ご遺族にとりましては一周忌の日でもあり、各地で慰霊式が営まれました。

私が住む宮城県においても、特に沿岸部において、津波被害の甚大であった箇所に慰霊碑などが建立され、いろいろな箇所で盛大かつ厳粛に慰霊の法要が執り行なわれました。

以下の写真は、名取市閖上(ゆりあげ)にある日和山(ひよりやま、標高6.3メートル)の頂上に立てられた慰霊の墓標です。



伝統仏教では、特に亡くなられた御霊に対する慰霊・鎮魂の供養がなされることは周知のとおりでありますが、本来の仏教では「存亡斉しく導く(そんもうひとしくみちびく)」と教えられており、すなわち存(生きているもの、現世で肉体に魂を宿しているもの)も、亡(死んだもの、現世の肉体から魂が離れたもの)も、平等に成仏の道に入らしめる、と説いています。

いずれ肉体が滅びるならば、肉体がある間は、他人の迷惑など無関係に、好き勝手、やりたい放題のことをすればいいという考え方も出てきますが、それはとんでもない間違いです。

以前の記事にも書かせていただきましたが、命は永遠であり、肉体は消滅しても、魂は永遠に存在しますから、次の世の新たな肉体にいずれ宿るのだということを考えたら、最低限、他の迷惑になるようなことはできなくなります。

つまり、他に安心してもらったり、喜んでもらったりする行ないをしなければならないという思いが湧いてくることが自然ですし、当然、亡くなった方にも安心してもらい、喜んでもらう生き方をしようという、いわゆる心の復興こそが先決であることになります。

災害によって非業の死に遭遇した人も、畳の上で大勢の肉親に看取られた人も、永遠の命というものさしで見れば、等しく天寿を全うし、大往生を遂げた人たちであります。

全ての亡くなられた方々に対する感謝の誠を捧げ、まだ肉体を遺された私たちが、存亡斉しく導く仏さまの願いに従って、形の上だけでなく、心の復興を果たし、震災以前の状態より、さらに進化した状態を築き上げなければならないと思います。

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十代女流棋士の活躍に期待!

少々コムズカシイ話が続いたので、久しぶりに将棋の話題です。

一週間ぐらい前の話ですが、長谷川優貴女流二段が16歳5ヶ月の若さで「マイナビ女子オープン=女王」のタイトル挑戦者に決定したとのニュースが流れ、将棋界ではちょっとした話題になりました。

年齢的には、史上6番目の若さのタイトル挑戦ということで、過去にはもっとすごい女流棋士がいたわけですが、このタイトル挑戦ということに絡んでもっと大きな話題になったのは、プロ入りしてからなんとたったの4戦目でタイトル挑戦を決め、しかも同時に女流二段に昇格したことは史上最短記録だそうであります。

マイナビ女子オープンのサイトは<こちら>

なんだかとてつもない逸材が登場してきた感じがしてワクワクします。これでもしタイトル奪取ということになったら、里見香奈女流三冠の記録を破る、史上三番目の若さでのタイトルホルダーということになります。

その里見香奈女流三冠のほうも、昨年11月、通産タイトル7期を達成して、史上最年少で女流五段に昇格し、さらに今年始め、奨励会の例会で男性会員に混じって12勝4敗の成績を挙げ、現行規定で初となる奨励会初段に昇段したとのこと。

それと、昨年12月に、こちらは厳密には女流棋士ではなく奨励会1級ですが、16歳9か月の若さでタイトル奪取した加藤桃子女流王座の活躍も楽しみです。

ベテラン女流棋士の活躍も健在な中、若い、しかも十代の女流棋士がこれほど活躍されることは、将棋界にとって恵まれていることでしょうし、将棋人口が増える大きなきっかけにもなるのではないでしょうか。今後益々の活躍に期待大であります。

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仏、命、宇宙

年明け半月も経ってから、本年初の書き込みであります。昨年は、日本史上初といっても過言でない天災地災に見舞われた年でありました。今年は心気一転、目に見えるところの復興はもちろん、心の復興をこそ固く決意してよい一年にしてまいりたいと思います。手始めに、ブログのテンプレートを変更いたしましたv

さて、前回(といっても昨年末;)生命と命ということについて感じたことを書かせて頂きましたが、その後、ご質問を頂戴していることもあり、さらに一歩踏み込んで考えてみたいと思います。

準備として、宇宙の構造についておさらいしてみたいと思います。

まず、当たり前のことですが、私たちは地球という惑星の上で命を授かり、存在させられています。(あえて、いちいち「させられて」と書かせて頂きます。)地球は太陽系に属し、一番内側から数えて三番目の惑星であることも常識となっています。で、太陽系は、直径10万光年といわれる銀河系に含まれていることもよく知られています。

さて、では銀河系はどこにあるのかというと、局所銀河群とよばれる、私たちの銀河系とよく似た形の銀河が数十個密集している群に属しているのだそうです。密集といっても、私たちの銀河のとなりの銀河系(アンドロメダ銀河)までは200万光年ぐらいあるとか!この時点で、もはやその大きさをイメージすることすら難しくなってしまいます。

その局所銀河群は、さらに数百個とか数千個集まり、銀河団を形成しているのだそうです。局所銀河群同士の距離は700~1,000万光年だそうです。

さらにさらに、銀河団は、超銀河団というところに属し、またその上には超々銀河団という構造があるのだそうです。そして、超々銀河団が規則的に連なって宇宙を形成しているというのです。現在の天文学で観測可能な(観測可能な、ということがミソ)宇宙の直径は約400億光年だとか!光の速さで進んで400億年。地球が太陽系から誕生して約40億年だそうなので、光が宇宙を横断するのに、地球誕生からの時間の10倍かかるということになります。しかし、本当の宇宙の大きさは今の科学では正確には分かっていないようです。

そんなとてつもない大きさの宇宙ですが、私たちが知っている物質でできている、いわゆる目に見えるモノは、宇宙全体の4パーセントしかなく、他の96パーセントは、今の科学でも未知の物質(エネルギー)でできている、というのです。何もないと思われる真空の部分も、未知のエネルギーがぎっしり詰まっているのだそうです。(東京大学名誉教授 佐藤勝彦氏の記事を併せてご参考ください。→ <こちら> )

そして、私たち人間には意識があります。人間だけでなく、動植物にも意識があると考えられます。その代表的なものは「生きたい」という意識です。この意識も、未知のエネルギーの一部と考えることができそうです。この「生きたい」という意識が病むと「殺したい」という意識に変化したりするともいえそうです。特に人間がそうです。他の動植物は、むやみに他の生き物を殺したりしませんから。

結論として、この「生きたい」もしくは「生かしたい」という意識を与えるモノのことを、いわば創造主、神仏というのではないでしょうか。そして、意識そのもののことを命というのである、と。

意識を与えるモノ、意識そのもの、目に見えるもの、その他の目に見えないものを全部含んで納めているのが宇宙という一つの入れ物という見方もでき、あるいは、意識を与えられた私たちも宇宙の一部分であり、神仏の意思も本来備えているという見方もできると思います。

そう考えると、ちっぽけな存在と思っていた自分も、ほんとうはものすごく尊い存在だったのだと思えてきます。

仏教でも命の尊厳を説いており、他の多くの宗教でも、いや、宗教に限らず、あらゆる思想に共通する根本ではないでしょうか。

今回はこのへんで。さらに研鑽を深めていきたいと思います。

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生命と命

本年3月11日に発生した巨大地震による東日本大震災により、保険会社から極めて多額の保険金が支払われ、小さい保険会社は倒産してしまったところもあるという実態は広く知られるところであります。

ところで、話がだいぶ飛躍しますが、生命保険という表現はあっても、命保険という表現は聞いたことがありません。また、「生命が宿る」、「命が宿る」という表現は両方ありますが、どちらかというと「命が宿る」という表現のほうが多用され、しっくりくる感じがします。

そんなことをぼんやり思うなか、生命と命というのは、もしかしたら大きく意味が違うのではないかと深く考えるようになり、仏教を学ばせて頂いている中で、ついに(?)「生命」と「命」の違いに気付きました。

仏教では、その究極的な考え方の一つとして「生かされている」ということが頻繁に説かれます。私たちは、自分の努力で生きているように考えがちですが、よーく考えると、自分一人の努力や意識のみで生きている人は一人もいないことが簡単に分かります。

誰しも(父母と会ったことが無い人でも)父が一人、母が一人必ず存在し、母が産んでくださった事実は否定できません。自分の努力や意識のみで生まれてきた人は一人もいません。

心臓や呼吸は、眠っていても止まりませんし、眠っていなくても無意識のうちに規則正しく(不整脈などの病気は別として)動いています。そもそも、なぜ眠くなるのかさえ、今の医学では厳密には分かっていないということです。

そして、自分が死ぬ時期さえも予測することは不可能です。誰しも必ずいつか死にます。もちろん、自殺は論外ですが、逆に、自殺しようとして線路に寝そべっていても、なんらかのトラブルで列車が走らなくなり、結局死にそこなった、などという話も聞いたことがありますが、まさしく何かによって「生かされている」ことの一例といえなくないと思います。

少々話が発散ぎみになりましたが、要するに、「生かされる」ということは「死なされる」ということと同じであり、生命には限りがあるということが断言できます。

では、その「生かしたり」、「死なせたり」する大本の存在は、一体何なのかという命題が生じます。それを仏教では「仏」といいます。

そうすると、「仏」は死なないのか?という疑問も当然生じてきますが、仏教の結論は「死なない」ということです。

つまり、死なない仏が具えている存在のことを「命」といい、これは宇宙にただ一つであり、宇宙全体といってもいいものだと思います。根本的なこの「命」は、まさしく永久不滅の存在です。そして、仏によって、生身の体に命が吹き込まれ、その生身の体と命をひっくるめて「生命」というのだと考えられます。そして、一度吹き込まれた命は、一定期間が過ぎると(これを「寿命」という)、仏によって抜き取られる、ということがいえそうです。

じゃあ、一体なぜ仏さんは、いちいちそんなことをするのかという疑問に発展するわけですが、その疑問の先にこそ仏教=仏の教えがあります。(仏教を一言でいえば、命を宿している間のよりよい生き方を示した教え、ということになりそうですが、今回のテーマからは外れるので言及しません。)

まとめると、「命」とは、宇宙にただ一つしかなく、宇宙全体に充満しているものであり、不滅なもの。「生命」とは、ある一定期間、命が宿った物体(生体)のこと、ということになりそうです。もしかすると、「命」そのもののことを、仏教では「仏」、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどでは「主」とか「神」といっているのかもしれません。

仏教を学んでいる方にもそうでない方にも共感していただけそうな気がしていますが、そういえば(わざとらしく;)、今日12月8日は、お釈迦さまが悟りを開いた日(成道会)であります。お釈迦さまの悟りに一歩でも近づけるよう、新たな精進をお誓いしたいと思います。

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幼年者心得之廉書

前回、「幼年者心得之廉書」の”その一”のみ書かせて頂きましたところ、一部の方からの全文を載せて欲しいというご要望にお応えしまして(^^;)、転載させて頂きたいと思います。なお、出典は「よみがえる日新館童子訓」(會津藩校日新館発行)です。原文の文語体の各条の後に、青字で口語訳を書かせて頂きます。

其の一
毎朝早く起き手洗い、口すすぎ櫛り衣を正しうして父母の機嫌を伺い、年齢に応じ座中を掃除し客の設け等致すべし。


その一
毎朝早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝の挨拶をしなさい。年齢に応じて部屋の掃除をし、いつでもお客様を迎えられるようにしなさい。


其の二
父母および目上の者へ朝夕食事の給仕、茶煙草の通ひすべし。父母一同に食するならば、父母の箸を取らざる内は食すべからず。故ありて早く食すことあらば其の訳を告げて早く食すべし。


その二
父母や目上の人への食事の給仕、それにお茶や煙草の準備をしなさい。父母といっしょに食事をするときは、両親が箸を取らないうちは先に食べてはいけません。どうしても先に食べなければならないときは、理由を話し許しを得なければなりません。


其の三
父母及び目上の者の出入りには、必ず送迎すべし。


その三
父母や目上のお客様が玄関を出入りする時は、送り迎えをしなさい。


其の四
出る時は父母に見て暇を乞い、行先を告げ、帰る時も同じくその旨を告ぐるべし。凡て何事も父母に伺い己れ専らになすべからず。


その四
外出をする時は父母に行き先を告げ、帰宅したら「只今戻りました」と挨拶しなさい。すべて何事も父母に伺いをたて、自分勝手なことをしてはいけません。


其の五
父母及び目上の人の前にて立ちながら物言い、立ちながら物聞くことをせざるべし。寒けれども手を懐にせず、暑けれども扇使わず、肌脱がず、衣の裾をかかげず。其の外不綺麗の物父母の見るところに置くべからず。


その五
父母や目上の人と話しをする時は、立ったままではいけません。また、いくら寒いからといって手を懐に入れたり、暑いからといって扇を使ったり、衣服を脱いだり、裾をたくし上げたりしてはいけません。父母の目につくところに、汚れた物を置くこともいけません。


其の六
父母及び目上の人事を命じ給わば、謹みて承り、其の事を整い怠るべからず。己れ呼び給わば速やかに答えて走り行くべし。仮初にも其の命に違わず、不敬の応声すべからず。


その六
父母や目上の人から用事を頼まれた時は、謹んで用件を聞き、怠りなく行動しなさい。呼ばれたときは速やかに返事をし、どんなことがあっても言いつけに背いたり、不真面目な返事をしてはいけません。


其の七
父母衣服を重ねる様命じ給わば、寒く覚えずとも命に従うべし。新に衣服を賜わば嗜まざるものにても慎て戴くべし。


その七
父母が寒さを心配して衣服の重ね着をすすめたら、さほどではないと思っても従いなさい。また、新しい衣服を用意して下さった時は、謹んで頂きなさい。


其の八
父母の常に居給う畳に仮初にも居るべからず。道の真中は尊者の通る所故、片寄り通るべし。門の閾を踏まず、中央を通るべからず。君門は尚更のことなり。


その八
父母の居場所となっている畳の上には、どんな理由があろうと上がってはいけません。また、道の真ん中は偉い人が通るところですから、子供は道の端を歩きなさい。門の敷居は踏んではならず、中央を通ってもいけません。ましてや藩主や家老など偉い人が通る門であればなおさらです。


其の九
先生または父兄と役義を同じうする程の尊者に道に逢う時は、路の傍に控えて礼をなすべし。行先など問うべからず。共に行くとも後れ行くべし。


その九
先生や父母と付き合いのある人と出会った時は、道の端に控えて礼をしなさい。決して軽々しく行き先などを尋ねてはいけません。もし、いっしょに歩かなければならない時は、後ろに控えながら行きなさい。


其の十
人を誹り、人を笑い、或は戯に高きに登り深きに臨み、危うきことなすべからず。


その十
人の悪口を言ったり、人を笑ったりしてはいけません。また、ふざけて高いところに登ったり、川や水の深いところで危険な遊びをしてはいけません。


其の十一
凡て学習のこと先ず貌を正しくし己を謙り敬て其業を受くべし。


その十一
すべて、学ぶことから始めなさい。学習に際しては姿勢を正し、素直な気持ちで先生を心から尊敬して教わりなさい。


其の十二
容貌は徳の則なりといえば、士庶人きっと分れ見ゆる様に威儀をたしなみ、不敬不遜の容体無之様にすべし。尤も何程懇意に交わるとも言葉を崩さず、目下の者の挨拶奴僕と等しからざる様にすべし。言語も他邦に通ぜざる野鄙の言葉は常に気をつけ直すべし。


その十二
服装や姿かたちは、その人となりをあらわします。武士は武士らしく、衣服を正しく整えなさい。どのように親しい間柄であっても、言葉づかいを崩してはいけません。目下の者や品のない人間と、同じように見えることをしてはなりません。また、他藩の人に通じない下品な言葉を使ってはいけません。


其の十三
父母ある時は送物の類、私にすべからず。人より送り物ある時は拝してこれを受け、父母悦んことを言うべし。凡てこれに準じ家長を称すべし。


その十三
頂き物があったときは、自分一人のものにしてはいけません。どんな場合も丁重に受け取ったあと、父母に喜んで頂けるようきちんと説明することが肝心です。


其の十四
父母の助けになることは聊か労を厭わず、まめやかに勤め行うべし。


その十四
父母の手伝いをするときは、力の出し惜しみをしてはいけません。まめに働きなさい。


其の十五
尊者我が方に来るか或は他へ行きたる時、我に上立つ人来らば其座を立て迎い帰りにも又送るべし。客を得ては奴僕は勿論犬猫の類に至るまで叱ることすべからず。尊者の前にて嚏欠伸すべからず。すべて退屈の体すべからず。


その十五
目上の人がみえられたときは、席を立って迎え、そして見送りなさい。お客様の前では、身分の低い者や犬、猫にいたるまで決して叱り飛ばしてはいけません。また目上の人の前で、しゃっくりやげっぷ、くしゃみやあくびもいけません。失礼な態度に見えるような仕草はいけません。


其の十六
長者何事にても問うことあらば、先ず一座の人を願望して答うべし。己れ先立って率爾に答うべからず。


その十六
目上の人から何か尋ねられたときは、その場の人たちを見まわし適任者がいるようならその人に任せなさい。決して知ったかぶりをして先に答えてはいけません。


其の十七
酒宴遊興を楽とすべからず。年若の時別して慎むべきは色欲なり。一生を誤り、名を汚すものなれば幼年の時より男女の別を弁い、色欲の咄すべからず。或は戯言を以て人の笑を催し軽浮の貌すべからず。争いは我儘より発するものなれば、常に慎むべし。


その十七
仕事もしないで、酒を飲んでさわぎ遊郭に行くのを楽しみにするような人生はいけません。若い男性は、異性への欲求が強くなりがちですが、これが癖になったりすれば人生を誤り、不名誉な生涯になりかねません。幼いころから男女の区別をしっかりし、女性と遊ぶ話を好んでするようなことは禁物です。下品な言葉で周囲を笑わせたり、軽はずみな行いをしてはいけません。また、喧嘩は我慢できないから起こるものなので、何事にも我慢強くし喧嘩などしないよう心がけることが大切です。


会津藩の藩校「日新館」が創設されたのは、1,803年(享和3年)だったそうですが、さらに遡って1,600年代の中頃、町民たちが立てた「稽古堂」が、日新館の前身だったという歴史が残っているそうです。興味のある方は、<會津藩校日新館>のサイトをご参照ください。

とにかく、400年以上も長く創設の精神が受け継がれ、今の生活にもそのままあてはまる、これほど具体的な教えが残っていることは大変有り難いことです。また、すでにその精神が基礎となって私たちのDNAに組み込まれているような感じもいたします。

古き良き時代、古き良きものにも目を向け、新しい時代に取り入れていく姿勢を忘れないようにしたいものであります。

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日本古来の精神

最近学ばせていただいた、会津藩での幼年教育、什の掟をご紹介したいと思います。

什の掟

一、年長者(としうえのひと)の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、虚言(うそ)を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいじめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです


これは、会津藩の藩校「日新館」において、特に幼少年の男子に対し、以上の七つをしっかり守らせていたというものです。

この中で、七番目の「戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ」は、当時の封建社会の風潮からきているもので、男子を軟弱に育てまいとする意識のあらわれであり、男女平等の現代ではまったく通用しない内容です、という説明が添えられていました。

さらに、「幼年者心得之廉書(かどがき)」というものがあり、これは十七条あります。全部書き写してもいいのですが、とっても長くなりますので(^^;)、その1のみご紹介したいと思います。

その1
 毎朝早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝の挨拶をしなさい。年齢に応じて部屋の掃除をし、いつでもお客様を迎えられるようにしなさい。


「什の掟」も「幼年者心得之廉書」も、要は、父母や年長者を敬い、下の者や弱いものを助け、礼儀正しく居なさい、という精神に貫かれています。こういう教育は、一概にはいえまえんが大人になってからでは遅いので、幼少期から徹底して教育することが、結局は立派な人材、立派な大人を育成することつながるのだ、ということのようです。

元々日本は、古くから以上のような精神が培われてきている素晴らしい国だったはずですが、昨今の各界の諸問題を見聞きすると、いわゆる戦後教育、欧米化の波に推され、尊い精神が忘れられている感じが否めません。

もちろん、諸外国交流は大事なことでしょうし、これから益々国際化していくことも奨励されるべきことでしょうが、まずは自分から、日本古来の尊い精神を忘れないようにしていきたいものであります。

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心眼

まただいぶ間が開きました。11月~12月は、弊社は年度変わりのため、毎年のことながら多忙を極めております。

そんな中、またイイ話(というか、イイ本の紹介)を聞きましたのでメモっておきます。

ロボット工学博士の<森政弘>先生の著書、「心眼」の抜粋を以下に記します。

『君やぼくが、今ここにいるという原因は、もっと正確に言えば、一億年昔の先祖のせい、数億年過去のアメーバのせいというに止まらない。アメーバにも先祖はあるのだ。さらにその先祖をたどってゆくと、普通には生命がないと思われている炭素とか水素とかナトリウムとかいう物質の原子に到達し、さらに進むと陽子、電子、中性子、中間子という絶対に目では見えない素粒子に行き着いてしまう。
 しかしまだそこが終わりではない。その先は、ぼくは詳しくは勉強していないのだが、とにかく現代の最先端の物理学の一分野で研究されているようである。
 このように話をつきつめていくと、こういうことを感じないではいられなくなる。

1.素粒子、原子、分子、無機物、有機物、高分子(大きな分子)、単細胞生物、多細胞生物、人間、社会、世界、宇宙を形づくり、動かしている根本の力が巌然と実在する。仏教ではこの力のことを空と言っている。

2.その力は永遠の過去から作用し続けており、われわれがここに存在し、生きているのも、その力の作用によってである。

3.いわゆる生物だけに生命があるのではない。(本当に深く生物の研究をされた科学者にうかがってみると、生物と無生物の境目は画然としていないということだ)無機物にも、水素、ナトリウムにも生命がある。つまり、動物植物はもちろん鉱物をも含めて、あらゆるものが生命を持っている。

4.人間である両親、祖父母、曾祖父母・・・だけが先祖ではない。そのずっと先のサルから原生動物を経て原子、素粒子に至るすべてが祖先である。

 こう考えてくると、ぼくたちの生命というものは、お母さんから生まれた時に突然に発生し、死ぬ時に一瞬になくなってしまうと普通に思われているようなものではないことがわかってくる。空の力のあらわれとして、永遠の過去から永劫の未来へと受けつがれてゆく、宇宙の大生命そのものがぼくたちの命なのである。そして同時に宇宙の一切合切がぼくたちの親戚なのだ。この宇宙の大生命は寸刻も休むことなく、はつらつとして活動し続けているのである。ぼくたちの一刻一刻の呼吸も、一瞬一瞬の心臓の動きも、この大生命のあらわれなのだ。ぼくたちは、あらゆることに先立って、まずこのことに目覚める必要がある。』


これは、1,976年に出版された著書だそうです。森先生って、釈尊やイエス・キリストと同レベルのお方なのではなかろうかと思わされます。

本当に、人類の一人一人が、上記のようなことに目覚めることができたとしたら、地球がそのまま神仏の世界と同じになりそうな感じがします。無理なことだ、などと思わず、一歩ずつ努力してまいりたいと思います。

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歴史上最大の発見? 光より速いニュートリノ

平成23年9月24日の朝日新聞に「光より速いニュートリノが発見された」という記事が載っていました。久しぶりの、というか、ある種、生涯初めてのビックリ記事です。

ネットでも検索してみましたところ、メディア関係のあちこちのサイトがヒットしました。ご興味のある方は、ぜひ「光より速いニュートリノ」で検索してみてください。ちなみに、ニュートリノとは、物質を構成する陽子とか中性子とか電子とかと同類の、素粒子の一つと考えればよいでしょう。(というか、それ以上のことは素人の私には分かりません(^^;)

これがほんとうに、計測ミスもない事実だとしたならば、現代物理学を根底から覆す大事件になります。ただ、一部の記事に「これがほんとうなら、タイムマシンを作ることも可能になる」といったことも書かれていましたが、それは言い過ぎだと思います。まあ、これも素人の考えではあるのですが・・・。

私は以前、半導体メーカーに勤務していて、物理とか化学を多少かじっており、その延長で、相対性理論についても少々学んだことがあります。

相対性理論とは、ドイツの物理学者でノーベル物理学賞受賞者でもあるアルベルト・アインシュタイン博士が提唱した理論で、それまでのニュートン力学を古典物理、相対性理論以降の物理学を現代物理などといわれたりしています。

ニュートン力学は、日常生活においてならば、現在でも大変役立つ、有り難い学問なのですが、原子レベルの極小の世界や、光速に近いぐらいの速さで動くような世界においては、とたんに役に立たなくなり、そこに焦点をあて、物理学に革命を起こしたのが、ほかならぬアインシュタインの相対性理論であったわけです。

相対性理論の最大の特徴は、「エネルギーと質量は等価である」ということと、「光の速さは一定であり、何物も光の速さを超えることはできない」ということです。

これを話しだすと、どこまでも発散していって、私の少々かじった程度の知識では収拾つかなくなるので、この場では特に、「光の速さは一定であり、何物も光の速さを超えることはできない」ということにのみ触れてみたいと思います。

相対性理論には、いろいろなムズカシイ方程式が出てきますが、有名なものの一つに以下のような式があります。

m=m0/√(1-v^2/c^2)

mは物質の移動質量、m0は物質の静止質量、vは物質の移動速度、cは光速度を表わします。光速度は、秒速約30万キロメートルですから、cの値は、300,000,000m/sであり、c^2は90,000,000,000,000,000(9京)です。この式の分母に着目すると、vがcよりはるかに遅い、日常生活レベルの速度の場合、分母はほぼ1となるので、mはm0とほとんど変わらないということが分かります。

(2006年に打上げられた、人類最速の太陽系外縁探査ロケット「ニューホライズンズ」の速度は秒速30キロメートル(30,000m/s)ですから、上記の式に入れると、右辺の係数は1.000000005となります。人類最速のロケットの移動速度でさえ、たったの0.0000005パーセントしか質量が増えないということです。)

逆に、vがどんどん大きくなり、cに近づくにつれ分母が0に近づいていき、mがどんどん大きくなっていきます。もし、vがcと同じになると、分母は0となり、mは無限大になってしまいます。無限大の質量などというものは存在しえないため、これが、「何物も光の速さを超えることはできない」ということの一つの根拠となっています。

ところが、このたび発見されたニュートリノは、光の速さを超えているというのですから、相対性理論では説明がつかなくなるわけです。

それと、相対性理論には、時間に関する理論もあるのですが、光速度に近づくにつれ、時間は遅く進み、光速度に達すると時間は停止し、光速度を超えると時間が逆行する(マイナスの時間が「進む」)という式もあり、このことが「タイムマシンも可能」といわれるゆえんになっているのですが、そもそも、相対性理論が、光の速さが一定であり、あらゆる物理現象の基準として定義しているからであり、その定義事態がくずれることになるので、タイムマシン云々などという話以前の大問題であると思うのです。

いきなり話が飛躍しますが、相対性理論をはじめ、量子力学を含めた現代物理学は、宇宙の始まりとか、宇宙の果てとか、物質の最小素子を完全に把握できてはおらず、ましてや霊的現象などは、非科学として見向きもしていない事実を考えると、まだまだ進化発展する余地があるといえると思います。

今回の発見が、精神や霊の世界をも含めた新たな進化の始まりであるならば、歴史上最大の発見になるかもしれません。明るい未来を大いに期待したい発見であります。

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人間の正しい生き方

先日、いい話を聞きましたので、メモっておきたいと思います。

ロウソクは、どんなときに使うでしょうか?

仏壇の前で手を合わせたり、慰霊碑に祈りを捧げたりするとき、あるいは、ウエディングケーキやバースデーケーキに立てたり、結婚式のキャンドルサービスなど、いわゆる一つの儀式を催すときに使われます。

その他、このたびの大震災においては大規模な停電になりましたが、そういったときにも、電気が復旧しない間、明りを得るためにロウソクのお世話になった方も大勢いらっしゃることと思います。(私もその一人です。)

つまり、ロウソクを使う側からすれば、神聖かつ荘厳な雰囲気を醸し出す温かさや光としての明るさを得たいときに使うということになります。

見方を変えて、ロウソク自身の立場からするとどうでしょうか? ロウソクは、芯に火が着けられたので、そのまま燃え続けているだけです。結果的に、周囲に温かさや明るさを与えているということです。

ロウソクを使う側からすれば、温かさや明るさを得る目的に使うことはあっても、ロウソク自身は、何か目的があるわけでも、見返りを求めるわけでもなく、たんたんと自分自身を燃やしているだけだというのです。

これは、人間の正しい生き方を示唆しているということです。つまり、世のため人のためになる行動は、もちろん尊いことでありますが、それは本当の目的ではなく、あくまで、自分自身の真の役割を自覚し、なすべきことをたんたんと実行し、燃焼させていくことこそが真の目的であると。そして、二次的にというか、結果的にというか、周囲に温かさや明るさが及ぼされるということになります。

つまり、自分自身の真の役割を自覚することのほうが第一義であり、周囲に温かさや明るさが及ぼされている状態は、真の役割を自覚していることの証明になるというわけです。

逆にいうと、周囲に温かさや明るさを及ぼさず、迷惑や害悪を与えているならば、自分自身の真の役割を自覚していない、ということなるというのです。

以前に何度も紹介させて頂いた、お釈迦さまのいわば遺言ともいえる「自灯明・法灯明」という教えがありますが、そのことのたいへん分りやすい解釈と感じました。

同時に思い起こされることとして、「人の為」を漢字一文字で表わすと「偽」となりますが、これは、短絡的に、人の為になる行動が偽りの行動ということではけっしてなく、あくまで自分の役割を自覚するとか、自分を向上させることこそが真である、という意味にとらえるべきと考えられます。

自分は、周囲に温かさや明るさを及ぼしている存在か、けむたがられる存在かどうかということがひとつのチェック項目ではありますが、かといって気にし過ぎることもなく、自身の向上につとめてまいりたいと思います。

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