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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   

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最強の定跡は?

<第50期王位戦>、深浦王位vs木村八段の七番勝負は、深浦王位が3連勝し、なんとなんと3勝3敗の五分となりました。竜王戦に続き、王位戦までもタイトルホルダーが3連敗のカド番から4連勝で防衛ということになるのでしょうか。さすがは羽生キラー深浦王位といったところですが、心情的には、羽生四冠に次ぐ通算勝率2位を保持している、千駄ヶ谷の受け師、木村八段に奪取してもらいたい気持ちもあります。

一方、<第22期竜王戦>の挑戦者決定三番勝負のほうはというと、森内九段が深浦王位を下し、挑戦者に決定しました。森内九段は前期の名人戦で羽生四冠に破れ、現在無冠となっていますが、さらに遡れば、現在の渡辺竜王に竜王を明け渡したのも森内九段であります。その後、渡辺竜王は、5期連続で竜王を防衛し、見事永世竜王の称号を獲得したわけですが、その雪辱を果たすことができるかという点でも見ごたえがあります。

それにしても、トッププロの対局はほとんどが相居飛車。以前にも書いたことですが、振り飛車党のタイトルホルダーは久保棋王ただ一人であります。一時、将棋界を席巻した藤井システムも、その本家本元である藤井九段が、最近はたまに矢倉を指されたりと、どうも振り飛車が活躍している話をほとんど見たり聞いたりしていませんね。

しかし、私も好きでよく指すゴキゲン中飛車は、対居飛車には割といい勝率をあげていると思います。が、相振り飛車になるといまだに勝率が上がりません。いったい将棋における最強の定跡というのはあるのでしょうか。まぁ、ないんでしょうけど(笑)、やはり王道は居飛車ということなんですかね。

それでも、女流棋士ですが、出雲のイナズマの異名をとる里見倉敷藤花はほとんど中飛車しか指さないし、私もみならいたいと思います。

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日本の国民性

出張続きでだいぶ間が空いてしまいました。3週間ぶりの更新であります。

第45回衆議院選挙は、いよいよというか、ようやくというか、自公連立政権から民主党に政権が交代されるという結果におわりました。しかし、もちろん大事なのはこれからであって、民主党に政権が変わっても政治の中身がいままでとなんら変わらないものであるようなら、また別の政党に代わっていただかなければなりません。今後の民主党の舵取りに期待したいところです。

さて、ちょっと話は変わりますが、先日、憲法の、特にその歴史について学ぶ機会があり、そのことを少し書きたいと思います。

日本に最初にできた憲法は、聖徳太子が制定した十七条の憲法であることは小学生でも知っていることでありますが、ではなぜ、憲法が制定されなければならなかったのかということについては、忘れている人がほとんどだと思われます。

日本の飛鳥時代、現在の中国に、大統一国家、隋が成立し、聖徳太子はその大国の文化を取り入れるべく、西暦600年に第一回の遣隋使を派遣します。隋に派遣された使徒は、隋の文帝から、日本の政治のあり方について問われますが、そのとき日本にはまだ憲法はなく、しどろもどろになってしまったというのです。その結果、当然ながら日本は隋から見下されることになります。

これではいかんということで、聖徳太子は603年から604年にかけて、冠位十二階と十七条憲法を制定することになります。特に十七条憲法は、それまですでに日本に輸入されていた儒教や仏教の精神を取り入れた内容となっており、607年の第二回遣隋使のとき、小野妹子がそれをひっさげて、ときの煬帝に謁見し、日本を国家として認めてもらえたというようなことが歴史書に記されています。

その後日本は、独自の国家文化を形成し、江戸時代には鎖国などの制度もありましたが、第二次世界大戦敗戦後の昭和22年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から提示された現在の日本国憲法を受け入れ、現在に至っております。

周知のとおり、日本国憲法の第9条は、戦争をしないという内容のものであり、これは、その背景をよくよく検証すると、GHQの提示を無条件に受け入れたということのみでなく、当時の日本国民が同意見であると大いに納得して受け入れたものであるようです。

聖徳太子の十七条憲法も、儒教や仏教を外国のご機嫌取りのために受け入れたわけではなく、儒教も仏教も、これはよい思想・教えであると納得して受け入れているのであり、聖徳太子自身が法華経などの解説書をたくさん著述していることからも伺えます。

つまり、よいものを取り入れて独自のものにしていくというのは、大昔から一貫して日本の国民性であるように思われます。

一方、見方を変えると、回りの意見に流されやすいという面もあるのかもしれませんが、とにかくよいものをよいと認め受け入れる柔軟性は、諸外国に誇るべきところであると感じます。柔軟性という性質は、進歩するのに大事な要素であると思います。

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過去は変えられる

最近学ばせて頂いたことの中から一つメモさせて頂きます。

『過去は変えられない、未来は変えられる』とは、世間一般の常識であり、誰もが納得できることだと思います。これは、もっと限定的な見方をすると、「行為」については、ということであります。つまり、過去にやってしまったことは変えようがないことはいうまでもなく、また、これから起こる未来については、まだ何もやっていないので、自分の意思でいかようにも変えられるということです。

さて、「行為」についてと書きましたが、もう一つの視点があります。それは「意識」ということです。あのとき、こんな風に思ってこう行動した、こういうことを考えていたのであんなことをやってしまった、という経験が誰にでもあると思われます。そこを、あのときもっとこういう考え方をしていれば、もっと違う行動がとれたハズ、それによって、もっと違った結果になったハズ、という思いになった経験も誰にでもあると思います。

それによって、現在の考え方を変えることができ、考え方が変わればおのずと行動も変えることができるわけなので、「意識」についてのみいえば、過去に思ったことは変えられる、といえることになります。

そして、その意識はどこに向かって変化・収束していくかといえば、これはもう何度も書いていることですが、仏教でいえば「仏性(ぶっしょう)」でありますし、キリスト教などでいえば「神の御心(かみのみこころ)」ということになるでしょうか。

つまり、人間、いや、生きとし生ける全てのものが「仏性」とか「神の御心」という一点に尽き進んでいくという捉え方からすると、未来は変えられない、というより、未来辿り着くところはそこに決まっている、ということにもなります。

全てそこに向かって「生かされている」ということが、仏教の捉え方の一つでもあります。

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棋戦目白押し

またまた久しぶりの更新で、今回は将棋の話題です。

<将棋倶楽部24>のほうも、最近久しぶりに対局し、ちょっと珍しい棋譜が採れましたので<こちら>にアップしました。おヒマなときにどうぞご鑑賞くださいまし。

さてさて、将棋のタイトル戦が最近また盛り上がっております。<日本将棋連盟>のサイトもご覧になってみてください。

第50期王位戦が、現在、木村八段挑戦者が3勝1敗と、初のタイトル奪取に王手をかけております。羽生キラーの深浦王位も、千駄ヶ谷の受け師木村八段には苦戦しているというカンジでしょうか。

そして今日は、第22期竜王戦の挑戦者決定トーナメントで、羽生四冠と森内九段(十八世永世名人)の対局です。これまたビッグカードであります。とにかく羽生四冠には、永世七冠を目指して突っ走って頂きたいですね。


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参拝のすすめ

少し間が開きましたが、先日聞いた話をメモっておきます。

仏教学者(?)の毎田周一氏が説かれている内容で、他力の信心五箇条というのがあるそうです。以下の通り。

1.人の悪口を言わない
2.人を咎めない
3.人の恩を知る
4.人に教えない
5.人に恩を着せない

毎田氏は、特に親鸞上人に傾注されていたようなので、絶対他力という思想は浄土真宗で説かれている信仰形態のようです。

聞いた話は以上で、上記の五箇条についてそれほど詳しい解説などはありませんでしたので、以下は私の感想です。

仏の救いを信じて全てを仏に任せきる・・・西洋の一神教にも似た思想に感じますが、一点大きな違いがあります。それは、西洋の一神教の基本は、信じるものは救われる、逆にいうと信じないものは救われないということであるのに対し、仏教、特に浄土真宗の思想は、信じようが信じまいが既に救われている(生かされて生きている)ので、仏に対する感謝の意を込めて「南無阿弥陀仏」と唱えましょう、ということです。

浄土真宗の思想を理解すると、上記の五箇条の中で、「4.人に教えない」ということの意味は、「仏が人を教え導くのであるから、人が人に教える必要はない」というようにも受け止められます。

そうはいっても、現実の生活において、親は子どもに生活の基本を教えなければならないし、教師は生徒に学問や道徳を教えなければなりません。しかし、生活の基本や学問や道徳、さらには法律などをどれだけ勉強しても、それを守ったり、有効活用する心がなければ、それらを勉強したことにはならないわけです。もちろん、勉強は大事でありましょうが、それ以上に大事なのは心であるということです。

つまり「4.人に教えない」ということの真意は、俗世間のことがらについて教えないといっているのではなく、もっと深い、情操心とか信仰心のことをいっているのだと考えられます。

神仏を敬う心というものは、理屈を説明されて養われるものではないことは誰しも体験していることだと思います。では、どうしたら神仏を敬う心を養うことができるのか。それは、実際に神仏を敬う行為を、最初は形の上だけでも繰り返し実行してみるということが効果的であるようです。具体的な方法は、神社や仏閣、また宗派とか海外の寺院や教会でもいろいろ違いはありますが、とにかく(正しい)宗教の雰囲気に触れてみるというしかないようです。

幸い日本人は、初詣、お宮参り、お彼岸、お盆、クリスマスなどなど、宗教的イベントが生活に根ざしている民族でもありますので、折に触れ、神社やお寺にお参りにいって、神仏を敬う心を養うことが大事なことであると思います。

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羽生棋聖防衛!

最終第5局までもつれこんだ<第80期棋聖戦>は、羽生棋聖が見事防衛を果たしました。

いやはや、正直ヒヤヒヤしましたが、第5局はさすが羽生四冠といった指し回しでありました。特に、控え室の検討陣の次の一手予想を覆し、コンピュータ将棋が予測した手を指すあたりは、羽生四冠ならではの指し手でありました。

今年は羽生四冠はしばらく対局はないようですが、将棋イベントや取材等でお忙しくなるとか。将棋ファンとしては大いに結構なことです。益々将棋界を盛り上げていって頂きたいですね。

さて、それにしてもトッププロの将棋は、本局のような横歩取りや一手損角換わり、早繰り銀、腰掛銀といった相居飛車の戦形が圧倒的に多いですね。タイトルホルダーの中では唯一、久保棋王ただ一人が振り飛車党。で、振り飛車といっても、多くはゴキゲン中飛車なんですよね。四間飛車や石田流は、トッププロには通用しなくなってしまっているのでしょうか。

かつての大山康晴十五世名人のような重厚な振り飛車を指す棋士が現れてくれたら、将棋もさらに盛り上がると思うんですけどねぇ。

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自行と化他行

仏教、特に大乗仏教徒の修行には、自分自身を磨いて向上させるための自行と、人に教えを説くことによって人を救う化他行があります。

自分自身を磨き向上させる修行にも色々ありますが、第一には仏壇やご宝前の前でお経を声に出して読んで、神仏や先祖に感謝を捧げる読経供養があります。

最近ふと気付いたことですが、よくよく考えると、神仏や先祖に感謝を捧げる読経供養は、必然的に人の幸せや世の中の平安を祈りつつ行いますので、これもつまりは化他行であるといえます。

また、人に教えを説くことによって人を救う化他行は、説いた教えを聞いてくださる人のおかげで、結局は自分の心が整っていく=救われるわけなので、これもつまりは自行であるといえます。

要するに、自分を救う行も人を救う行も、厳密には区別できないということになりそうです。

さて、自行も化他行も、一言でいうと修行ということでありますが、<以前の書き込み>で、

10回繰り返すことをモノマネという。
100回繰り返すことを勉強という。
1,000回繰り返すことを練習という。
10,000回繰り返すことを鍛錬という。

ということを書かせて頂きましたが、このたび新たに付け足したいと思います。

100,000回繰り返すことを修行といい、
1,000,000回繰り返すことを精進という。

そういえば、心理学・教育学・社会学博士の<小林正観氏>が、「ありがとうを100万回言うと奇跡が起きる。」ということを著書で述べておられました。尋常でない回数ですが、とにかく、よいことを日常茶飯事繰り返すことはとても大事で、良いことに違いはないようです。

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羽生四冠の研究?

ちょっと遅くなりましたが、最終第7局までもつれこんだ<第67期名人戦>は、羽生名人が巻き返し、初の名人防衛となりました。第7局はさすが羽生四冠と思える横綱相撲でありました。

で、同時進行している<第80期棋聖戦五番勝負>でありますが、現在第3局まで終了し、1勝2敗とまたもやカド番であります。ただ、第3局の棋譜を拝見すると、戦形は羽生四冠には珍しい(と思われる)ガップリ四つの相矢倉。挑戦者である、千駄ヶ谷の受け師の異名を持つ木村八段の土俵にあえて乗っかって指している印象を受けました。

いわば、相手の土俵で戦ってみて研究を深め、勝てればモウケもの的な、余裕の心境なのかなと想像しますが、いずれにしてもこのままあっさり負ける羽生四冠ではないでしょう。次局以降も楽しみにしたいと思います。

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恋愛と夫婦愛の違い

最近、<全国亭主関白協会>(略して全亭協)の天野周一会長さんのお話にハマっています。

いままで私は、カカア天下に相対するのが亭主関白だと認識しており、同じ認識をもっておられる方がほとんどだと思われますが、それは大変な認識違いであったことがわかりました。

どういうことかというと、そもそも関白というのは、時の権力者に次ぐ2番目の位のことであり、家庭において亭主が関白ということは、要するにカミさん(神さま)に頭の上がらない2番目の地位であるというのです。

つまり、カミさんに服従するのが亭主の本来の姿であるというのですから、亭主がいばりくさっているようでは家庭はうまくいかなくなるのは当然ということです。

なので、亭主の立場からしたら、カミさんの尻に上手に敷かれることを学ぶべきでありますし、カミさんの立場からしたら、亭主をいかに旨く手のひらの上でころがすことができるかということを学ぶ必要があるということです。

恋愛とは、あばたもエクボなどという言葉がある通り、なんでもかんでも相手を美化して燃え上がりますが、結婚して時間が経つとともに、燃え上がった炎は炭火のようにくすぶり、長所も短所もありのままが全部見えてきてしまいます。そのときに相手の短所ばかりを指摘しあうようなことになると、いきつく果ては離婚ということになるわけです。

したがって、長所も短所もありのままを受け入れあう、認め合う、カバーしあう努力が必要不可欠となります。そう、つまり、恋愛に努力は必要ありませんが、夫婦愛を育むには努力が必要ということなのですね。

これからも天野会長さんのご指南をよくかみしめて、円満な家庭、夫婦愛を育んでまいりたいと思います。

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命は一つ

このブログの冒頭に、釈尊の悟りということについて端的に書かせて頂いておりますが、実際のところは、釈尊が「悟った」というのはつまり何だったのかという点は、いまもって仏教学者の間でも完全に明らかにはなっていないのだそうですが、たしかに、理屈理論で解明しようとすると無理があるようです。

釈尊が悟りを開いたときの第一声は、次のようだったといわれています。
「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるをもっての故に証得せず」

この意味は、
「不思議だ。不思議だ。一切衆生はみな、仏と同じ智慧と徳のすがたをそなえている。では、なぜ一切衆生は、闘争と苦悩の生活を続けているのだろうか。それは、正しくものごとを見ることができずに妄想をくり返しており、仮の現れである自分自身に執着しているために、自分の本質が仏と同じ輝かしいものであることに気付かないでいるのだ。」

ということです。また、釈尊が悟りを開いたのち、最初に説法したときの第一声は、
「比丘(出家の修行者)たちよ。この世に近づいてはならぬ二つの極端がある。如来(真如から来た人という意味で、要するに仏のこと)は、この二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである。」

だそうです。では、仏とは何なのか、仏の智慧(知恵ではなくて)とは何なのか、中道とは何なのかということになるわけですが、それは特に妙法蓮華経というお経を読むとなんとなく理解はできます。(ちなみに、二つの極端とは、苦行主義と快楽主義のことで、クソ真面目でもいけないし、不真面目でもいけないと解釈されています。)

簡単にいうと、仏とは命そのものであり、仏の智慧とは、命を与えようとするはたらき、ということであり、中道とは、そのはたらきを見極めるということです。さらに命というのは、始まりもなく終わりもなく、また切れ目もなくつながっている無始無終の存在だというのです。

こうなると理論的に証明することは不可能でありますが、なんとなくそのように感じたり、信じることはできそうな気がします。

自分の命とはどこにあって、どこまでをいうのかを考えた場合、例えば髪の毛を切ったとき、切る前は自分の髪の毛だったものが、切った途端に自分のものでなくなるとはいえないことはすぐに理解できるように、自分の命すら境目を明確に定義することはできないわけです。

つまり、自分の肉体は、命という大海に浮かんでいるものと考えると、肉体がなくなっても命は無くならないと考えることもできます。

生きとし生けるあらゆるものの命は一つにつながっていて、一人ひとりの肉体は、その命の具現化であると考えれば、自分も他人も同じように尊い存在であるということに気付けると思います。

命は一つということ、またその尊さについて、さらに深く研鑽してまいりたいと思います。

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