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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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熊本地震で被災された方々にお見舞い申し上げます

4月14日の夜から断続的に発生した熊本地震によって被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。

東日本大震災の折、仙台で被災した私にとっては人ごとと思えず、当時世界中からご支援頂いたことへのご恩返しを、今こそしなければという気持ちで一杯です。

地震から4日目、個人的な経験としては、米、水、野菜、調味料といった食料、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、歯ブラシ、歯磨き、ヒゲソリなどの日用品が不足してくると思われます。

熊本市のホームページで支援物資の受入れ先が掲示されていましたので、以下にリンクを貼らせて頂きます。

<地震に関する支援物資の搬送について>

家族・親族・友人を亡くされた方々、住まい・財産を失われた方々、ほんとうにお辛いと思います。ですがどうか希望を捨てないでください。日本中、世界中の人が復旧、復興を祈り、必ず支援の手を差し伸べてくださるはずです。私もその一人です。どうかどうか希望を捨てないでください。

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人材育成

大変ご無沙汰しておりました。ちょうど三カ月ぶりの更新です。東日本大震災から1年4カ月が経過し、被災地を開催地とする各種の慰霊や復興イベントが予定され、その準備や対応で目の回る忙しさでありますが、全国あるいは世界中の方々から、復興に対して心を寄せてくださっているという実感もあります。

さて、そんな中、局地的な復興はもちろん、地球全体の、意識レベルをも含めた進歩・向上を恒久的に進めていくためには、人材育成こそが万人の終身計画であるということを深く学ばせていただく機会がありました。人材育成ということの中には、当然ながら自分自身も含まれている、ということもつくづく学ばせていただきました。

その中で、昭和40年代に著された、仏教関係のあるエッセイ的な著書の一節に、とても印象的な内容がありましたので、原文のまま記載させていただきます。

『ハダに触れた教育ということで、いま一つ思いつくことは盤珪(ばんけい)禅師のことであります。禅師の弟子の中に盗癖のある僧がいるので、あるとき弟子たちが「盗癖をもつ僧が、われわれの中にいたのではたまらないから、それを山から追放すべきである。もし追放しないなら、われわれのほうで山から出ていくよりしかたがありません」と弟子たちが、禅師に迫ったのであります。そのとき、禅師は「お前たちは、まじめだから、どこへ行っても良い師匠につくことができるだろうが、この男は、私がめんどうをみなかったら、いったいだれがみるというのか、お前たちこそ他所へ行くところがあるのだから遠慮なく出ていきなさい」と答えられたというのであります。教育、教育と盛んにいいはいたしますが、最近のそれには、”教”はあっても”育”がないとよくいわれます。おこがましい表現ですが、宗教者というものは、人間再教育の教師であるといわれるくらいなのですから、どうか、育てることに情熱を持つ人になっていただきたいものであります。』

盤珪禅師は、江戸時代前期の臨済宗のお坊さんで、人柄はたいへんやさしく、大名から庶民にいたるまで広く仏の教えを説かれた人であります。

昨今も相変わらず、社会的地位の高い人や、著名な人であっても、愚言や愚行がメディアに取り沙汰され、他人ごとながら情けない思いにかられたりもします。しかし、仏教には十界互具という教えがあり、何ぴとたりとも、地獄(怒り)、餓鬼(貪り)、畜生(本能むきだし)、修羅(争い)の心を具えており、いわゆるそれらの悪い心は消滅させることはできないのだと説かれています。

無くすことができないのだとしたら、それらの心が簡単に表面化しないよう、うまくコントロールするしか方法はないわけですが、幼児教育、情操教育等は、まさにそのコントロール法を自得させる教育といえると思います。では、大人になったらもう遅いのかというと、決してそんなことはないはずです。理性の発達した大人こそ、もし幼少期にそうした教育をちゃんと受けられなかったと自覚できれば、悪い習慣を冷静に見直して、良い習慣づくりに取り組むこともできると思います。

結局、教育とは、知識を与えることだけでなく、心の教育こそが先決であり、重要であるということになります。そもそも、仏教では、全ての人はもともと仏の性質、すなわち仏性を具えていると説いており、そのことに自覚しさえすればよいとも説いていますし、教育を英語では「education」といい、直訳すると「引き出す」という意味からも、元々持っている仏性を引き出すこと、というふうにも受けとれます。

自分自身をも含めた、仏性を引き出す関わりを常に意識してまいりたいと思います。

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存亡斉しく導く

3月11日、昨年の同日発生した東日本大震災から丸1年が経ちました。そして、ご遺族にとりましては一周忌の日でもあり、各地で慰霊式が営まれました。

私が住む宮城県においても、特に沿岸部において、津波被害の甚大であった箇所に慰霊碑などが建立され、いろいろな箇所で盛大かつ厳粛に慰霊の法要が執り行なわれました。

以下の写真は、名取市閖上(ゆりあげ)にある日和山(ひよりやま、標高6.3メートル)の頂上に立てられた慰霊の墓標です。



伝統仏教では、特に亡くなられた御霊に対する慰霊・鎮魂の供養がなされることは周知のとおりでありますが、本来の仏教では「存亡斉しく導く(そんもうひとしくみちびく)」と教えられており、すなわち存(生きているもの、現世で肉体に魂を宿しているもの)も、亡(死んだもの、現世の肉体から魂が離れたもの)も、平等に成仏の道に入らしめる、と説いています。

いずれ肉体が滅びるならば、肉体がある間は、他人の迷惑など無関係に、好き勝手、やりたい放題のことをすればいいという考え方も出てきますが、それはとんでもない間違いです。

以前の記事にも書かせていただきましたが、命は永遠であり、肉体は消滅しても、魂は永遠に存在しますから、次の世の新たな肉体にいずれ宿るのだということを考えたら、最低限、他の迷惑になるようなことはできなくなります。

つまり、他に安心してもらったり、喜んでもらったりする行ないをしなければならないという思いが湧いてくることが自然ですし、当然、亡くなった方にも安心してもらい、喜んでもらう生き方をしようという、いわゆる心の復興こそが先決であることになります。

災害によって非業の死に遭遇した人も、畳の上で大勢の肉親に看取られた人も、永遠の命というものさしで見れば、等しく天寿を全うし、大往生を遂げた人たちであります。

全ての亡くなられた方々に対する感謝の誠を捧げ、まだ肉体を遺された私たちが、存亡斉しく導く仏さまの願いに従って、形の上だけでなく、心の復興を果たし、震災以前の状態より、さらに進化した状態を築き上げなければならないと思います。

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仏、命、宇宙

年明け半月も経ってから、本年初の書き込みであります。昨年は、日本史上初といっても過言でない天災地災に見舞われた年でありました。今年は心気一転、目に見えるところの復興はもちろん、心の復興をこそ固く決意してよい一年にしてまいりたいと思います。手始めに、ブログのテンプレートを変更いたしましたv

さて、前回(といっても昨年末;)生命と命ということについて感じたことを書かせて頂きましたが、その後、ご質問を頂戴していることもあり、さらに一歩踏み込んで考えてみたいと思います。

準備として、宇宙の構造についておさらいしてみたいと思います。

まず、当たり前のことですが、私たちは地球という惑星の上で命を授かり、存在させられています。(あえて、いちいち「させられて」と書かせて頂きます。)地球は太陽系に属し、一番内側から数えて三番目の惑星であることも常識となっています。で、太陽系は、直径10万光年といわれる銀河系に含まれていることもよく知られています。

さて、では銀河系はどこにあるのかというと、局所銀河群とよばれる、私たちの銀河系とよく似た形の銀河が数十個密集している群に属しているのだそうです。密集といっても、私たちの銀河のとなりの銀河系(アンドロメダ銀河)までは200万光年ぐらいあるとか!この時点で、もはやその大きさをイメージすることすら難しくなってしまいます。

その局所銀河群は、さらに数百個とか数千個集まり、銀河団を形成しているのだそうです。局所銀河群同士の距離は700~1,000万光年だそうです。

さらにさらに、銀河団は、超銀河団というところに属し、またその上には超々銀河団という構造があるのだそうです。そして、超々銀河団が規則的に連なって宇宙を形成しているというのです。現在の天文学で観測可能な(観測可能な、ということがミソ)宇宙の直径は約400億光年だとか!光の速さで進んで400億年。地球が太陽系から誕生して約40億年だそうなので、光が宇宙を横断するのに、地球誕生からの時間の10倍かかるということになります。しかし、本当の宇宙の大きさは今の科学では正確には分かっていないようです。

そんなとてつもない大きさの宇宙ですが、私たちが知っている物質でできている、いわゆる目に見えるモノは、宇宙全体の4パーセントしかなく、他の96パーセントは、今の科学でも未知の物質(エネルギー)でできている、というのです。何もないと思われる真空の部分も、未知のエネルギーがぎっしり詰まっているのだそうです。(東京大学名誉教授 佐藤勝彦氏の記事を併せてご参考ください。→ <こちら> )

そして、私たち人間には意識があります。人間だけでなく、動植物にも意識があると考えられます。その代表的なものは「生きたい」という意識です。この意識も、未知のエネルギーの一部と考えることができそうです。この「生きたい」という意識が病むと「殺したい」という意識に変化したりするともいえそうです。特に人間がそうです。他の動植物は、むやみに他の生き物を殺したりしませんから。

結論として、この「生きたい」もしくは「生かしたい」という意識を与えるモノのことを、いわば創造主、神仏というのではないでしょうか。そして、意識そのもののことを命というのである、と。

意識を与えるモノ、意識そのもの、目に見えるもの、その他の目に見えないものを全部含んで納めているのが宇宙という一つの入れ物という見方もでき、あるいは、意識を与えられた私たちも宇宙の一部分であり、神仏の意思も本来備えているという見方もできると思います。

そう考えると、ちっぽけな存在と思っていた自分も、ほんとうはものすごく尊い存在だったのだと思えてきます。

仏教でも命の尊厳を説いており、他の多くの宗教でも、いや、宗教に限らず、あらゆる思想に共通する根本ではないでしょうか。

今回はこのへんで。さらに研鑽を深めていきたいと思います。

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生命と命

本年3月11日に発生した巨大地震による東日本大震災により、保険会社から極めて多額の保険金が支払われ、小さい保険会社は倒産してしまったところもあるという実態は広く知られるところであります。

ところで、話がだいぶ飛躍しますが、生命保険という表現はあっても、命保険という表現は聞いたことがありません。また、「生命が宿る」、「命が宿る」という表現は両方ありますが、どちらかというと「命が宿る」という表現のほうが多用され、しっくりくる感じがします。

そんなことをぼんやり思うなか、生命と命というのは、もしかしたら大きく意味が違うのではないかと深く考えるようになり、仏教を学ばせて頂いている中で、ついに(?)「生命」と「命」の違いに気付きました。

仏教では、その究極的な考え方の一つとして「生かされている」ということが頻繁に説かれます。私たちは、自分の努力で生きているように考えがちですが、よーく考えると、自分一人の努力や意識のみで生きている人は一人もいないことが簡単に分かります。

誰しも(父母と会ったことが無い人でも)父が一人、母が一人必ず存在し、母が産んでくださった事実は否定できません。自分の努力や意識のみで生まれてきた人は一人もいません。

心臓や呼吸は、眠っていても止まりませんし、眠っていなくても無意識のうちに規則正しく(不整脈などの病気は別として)動いています。そもそも、なぜ眠くなるのかさえ、今の医学では厳密には分かっていないということです。

そして、自分が死ぬ時期さえも予測することは不可能です。誰しも必ずいつか死にます。もちろん、自殺は論外ですが、逆に、自殺しようとして線路に寝そべっていても、なんらかのトラブルで列車が走らなくなり、結局死にそこなった、などという話も聞いたことがありますが、まさしく何かによって「生かされている」ことの一例といえなくないと思います。

少々話が発散ぎみになりましたが、要するに、「生かされる」ということは「死なされる」ということと同じであり、生命には限りがあるということが断言できます。

では、その「生かしたり」、「死なせたり」する大本の存在は、一体何なのかという命題が生じます。それを仏教では「仏」といいます。

そうすると、「仏」は死なないのか?という疑問も当然生じてきますが、仏教の結論は「死なない」ということです。

つまり、死なない仏が具えている存在のことを「命」といい、これは宇宙にただ一つであり、宇宙全体といってもいいものだと思います。根本的なこの「命」は、まさしく永久不滅の存在です。そして、仏によって、生身の体に命が吹き込まれ、その生身の体と命をひっくるめて「生命」というのだと考えられます。そして、一度吹き込まれた命は、一定期間が過ぎると(これを「寿命」という)、仏によって抜き取られる、ということがいえそうです。

じゃあ、一体なぜ仏さんは、いちいちそんなことをするのかという疑問に発展するわけですが、その疑問の先にこそ仏教=仏の教えがあります。(仏教を一言でいえば、命を宿している間のよりよい生き方を示した教え、ということになりそうですが、今回のテーマからは外れるので言及しません。)

まとめると、「命」とは、宇宙にただ一つしかなく、宇宙全体に充満しているものであり、不滅なもの。「生命」とは、ある一定期間、命が宿った物体(生体)のこと、ということになりそうです。もしかすると、「命」そのもののことを、仏教では「仏」、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどでは「主」とか「神」といっているのかもしれません。

仏教を学んでいる方にもそうでない方にも共感していただけそうな気がしていますが、そういえば(わざとらしく;)、今日12月8日は、お釈迦さまが悟りを開いた日(成道会)であります。お釈迦さまの悟りに一歩でも近づけるよう、新たな精進をお誓いしたいと思います。

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心眼

まただいぶ間が開きました。11月~12月は、弊社は年度変わりのため、毎年のことながら多忙を極めております。

そんな中、またイイ話(というか、イイ本の紹介)を聞きましたのでメモっておきます。

ロボット工学博士の<森政弘>先生の著書、「心眼」の抜粋を以下に記します。

『君やぼくが、今ここにいるという原因は、もっと正確に言えば、一億年昔の先祖のせい、数億年過去のアメーバのせいというに止まらない。アメーバにも先祖はあるのだ。さらにその先祖をたどってゆくと、普通には生命がないと思われている炭素とか水素とかナトリウムとかいう物質の原子に到達し、さらに進むと陽子、電子、中性子、中間子という絶対に目では見えない素粒子に行き着いてしまう。
 しかしまだそこが終わりではない。その先は、ぼくは詳しくは勉強していないのだが、とにかく現代の最先端の物理学の一分野で研究されているようである。
 このように話をつきつめていくと、こういうことを感じないではいられなくなる。

1.素粒子、原子、分子、無機物、有機物、高分子(大きな分子)、単細胞生物、多細胞生物、人間、社会、世界、宇宙を形づくり、動かしている根本の力が巌然と実在する。仏教ではこの力のことを空と言っている。

2.その力は永遠の過去から作用し続けており、われわれがここに存在し、生きているのも、その力の作用によってである。

3.いわゆる生物だけに生命があるのではない。(本当に深く生物の研究をされた科学者にうかがってみると、生物と無生物の境目は画然としていないということだ)無機物にも、水素、ナトリウムにも生命がある。つまり、動物植物はもちろん鉱物をも含めて、あらゆるものが生命を持っている。

4.人間である両親、祖父母、曾祖父母・・・だけが先祖ではない。そのずっと先のサルから原生動物を経て原子、素粒子に至るすべてが祖先である。

 こう考えてくると、ぼくたちの生命というものは、お母さんから生まれた時に突然に発生し、死ぬ時に一瞬になくなってしまうと普通に思われているようなものではないことがわかってくる。空の力のあらわれとして、永遠の過去から永劫の未来へと受けつがれてゆく、宇宙の大生命そのものがぼくたちの命なのである。そして同時に宇宙の一切合切がぼくたちの親戚なのだ。この宇宙の大生命は寸刻も休むことなく、はつらつとして活動し続けているのである。ぼくたちの一刻一刻の呼吸も、一瞬一瞬の心臓の動きも、この大生命のあらわれなのだ。ぼくたちは、あらゆることに先立って、まずこのことに目覚める必要がある。』


これは、1,976年に出版された著書だそうです。森先生って、釈尊やイエス・キリストと同レベルのお方なのではなかろうかと思わされます。

本当に、人類の一人一人が、上記のようなことに目覚めることができたとしたら、地球がそのまま神仏の世界と同じになりそうな感じがします。無理なことだ、などと思わず、一歩ずつ努力してまいりたいと思います。

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人間の正しい生き方

先日、いい話を聞きましたので、メモっておきたいと思います。

ロウソクは、どんなときに使うでしょうか?

仏壇の前で手を合わせたり、慰霊碑に祈りを捧げたりするとき、あるいは、ウエディングケーキやバースデーケーキに立てたり、結婚式のキャンドルサービスなど、いわゆる一つの儀式を催すときに使われます。

その他、このたびの大震災においては大規模な停電になりましたが、そういったときにも、電気が復旧しない間、明りを得るためにロウソクのお世話になった方も大勢いらっしゃることと思います。(私もその一人です。)

つまり、ロウソクを使う側からすれば、神聖かつ荘厳な雰囲気を醸し出す温かさや光としての明るさを得たいときに使うということになります。

見方を変えて、ロウソク自身の立場からするとどうでしょうか? ロウソクは、芯に火が着けられたので、そのまま燃え続けているだけです。結果的に、周囲に温かさや明るさを与えているということです。

ロウソクを使う側からすれば、温かさや明るさを得る目的に使うことはあっても、ロウソク自身は、何か目的があるわけでも、見返りを求めるわけでもなく、たんたんと自分自身を燃やしているだけだというのです。

これは、人間の正しい生き方を示唆しているということです。つまり、世のため人のためになる行動は、もちろん尊いことでありますが、それは本当の目的ではなく、あくまで、自分自身の真の役割を自覚し、なすべきことをたんたんと実行し、燃焼させていくことこそが真の目的であると。そして、二次的にというか、結果的にというか、周囲に温かさや明るさが及ぼされるということになります。

つまり、自分自身の真の役割を自覚することのほうが第一義であり、周囲に温かさや明るさが及ぼされている状態は、真の役割を自覚していることの証明になるというわけです。

逆にいうと、周囲に温かさや明るさを及ぼさず、迷惑や害悪を与えているならば、自分自身の真の役割を自覚していない、ということなるというのです。

以前に何度も紹介させて頂いた、お釈迦さまのいわば遺言ともいえる「自灯明・法灯明」という教えがありますが、そのことのたいへん分りやすい解釈と感じました。

同時に思い起こされることとして、「人の為」を漢字一文字で表わすと「偽」となりますが、これは、短絡的に、人の為になる行動が偽りの行動ということではけっしてなく、あくまで自分の役割を自覚するとか、自分を向上させることこそが真である、という意味にとらえるべきと考えられます。

自分は、周囲に温かさや明るさを及ぼしている存在か、けむたがられる存在かどうかということがひとつのチェック項目ではありますが、かといって気にし過ぎることもなく、自身の向上につとめてまいりたいと思います。

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孝は百行の本

2ヶ月弱ぶりの更新です。

3.11の大震災から4ヶ月が過ぎましたが、とりわけ家族を亡くされた方の悲しみは、人により悲しみの深さ浅さは違いましょうが、解消されることは当分ないと思います。

しかし、日本には法要の風習がありますので、四十九日、百箇日、一周忌、三回忌等々、それを一つの区切りとして、故人に供養を捧げ、偲び、遺された者として現実に向き合い、悲しみがよみがえってくることもありましょうが、新たな一歩を踏み出す機会とすることができるのだと思います。いや、悲しいときは大いに涙することも必要ですし、涙することが最適な癒しにもなりえます。

さて、本日は盂蘭盆です。先の法要の他に、年中行事として、盂蘭盆やお彼岸もあります。盂蘭盆やお彼岸も、故人に供養を捧げ、偲び、新たな一歩を踏み出す機会とする意味で、年忌法要と目的はほぼ同様と考えてよいと思います。

この「新たな一歩を踏み出す」ということが、言うは易し、行なうは難しなわけで、どうしたら新たな一歩を踏み出すことができるかということが命題になります。

そんなとき、「孝は百行の本(こうはひゃっこうのもと)」という諺に出会い、つくづく日本は素晴しい国だと思わされましたが、これの出所を調べてみると、中国の十三経の一つ、「孝経」という経書だということが分かりました。

これの意味は、読んで字のごとく「親孝行は、あらゆる行ない(特に善い行ない)の大本である」ということです。

仏教では、一番の親孝行とは「親に安心してもらうこと」と教えられていますが、より率直にいうならば、「産んでくれたことそのものに感謝ができること」であります。さらに広げれば、家族、親族、友人知人、あるいは見ず知らずの人や全ての物事に対してさえも、陰に陽に支えてくださっていることに感謝ができることが大事なことといえます。

「衆生病めば仏病む」という言葉もあるように、家族や親しい人を亡くしたことに、悲しむこと以外できないとしたら、最も悲しむのは亡くなったその人である、ということになります。

「あなたのお陰で今の私があります。ありがとうございます。」という気持ちこそが、故人にも喜んで頂き、なにより自分自身が新たな一歩を踏み出せる大きな動機になりえるのだと思います。

「孝は百行の本」、人生の指針の一つにしたい、高貴な言葉であります。

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菩薩の心で

大変ご無沙汰いたしておりました。更新していない期間中も、拙ブログにご訪問くださいました皆様に感謝申し上げます。

このたびの東日本大震災に際し、弊会建屋に泊り込んでの救援活動は、4月一杯をもってひとまず区切りをつけ、GW明けから個別の救援活動に取り組むこととなりました。

ひと区切りついた早々、本ブログでもご報告せねばという思いは心の片隅にありましたが、私の知人も数名、震災の犠牲となって命を落とされ、他の知人にも、祖父母や両親を亡くされた方、ご主人を亡くされた方、奥様を亡くされた方、お子さんやお孫さんを亡くされた方も多くおられる中、現実の悲しさ、悔しさ、辛さがのしかかり、私自身、心の整理がつかない状況がありました。

私の知人は、不幸中の幸いにしてご遺体も発見され、火葬もでき、葬儀にも参列させて頂きましたが、いまだにご遺体が見つからず、ご遺体がみつかっても斎場が一杯で火葬もできず、葬儀・告別式すらできない方々も大勢いらっしゃると聞いています。

改めて、犠牲になられた多くの方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

3月11日14時46分の地震発生、いわゆる3.11の状態のまま、命が助かっても、心の時計が止まってしまった方が大勢いらっしゃいました。今もってそういう方々もいらっしゃることと思われますし、私自身も「あの出来事は、いったいなんだったんだ?!」と、夢を見ていたのではないかと錯覚するような思いになることもしばしばあります。

しかし、無期限に悲しんだり、悔やんだりしていてもどうにもなりません。このような非常事態だからこそ、現実を直視し、受入れ、そこから這い上がって、震災発生直前の時以上に、よりよい社会に復興させるための一助に、一人ひとりが、私が立ち上がらなければという強固な決意が大事なことだと思います。

震災直後から、自衛隊の方々はじめ、全国からのボランティアの皆さんが、この仙台にも大勢いらっしゃいました。津波によって無残に流された家屋や車は瓦礫と化し、沿岸部の道路を覆いつくしておりましたが、それらも迅速に撤去されております。

そうした中、流失や全壊を免れたお宅やお店であっても、床上1メートル以上も海水に浸かり、ほとんどの家財道具を処分しなければならないお宅もたくさんあります。そういうお宅に出向いて、家屋に流れ込んできた瓦礫の撤去や、床の清掃・消毒、畳の運び出し等、私も微力ながらお手伝いをさせていただきました。

そうした震災後の対応の中で、一番深く感じたことは、自分も何かお役に立ちたいという思いで、いてもたってもいられず、被災地に馳せ参じた方々がこんなにも多くいらっしゃったのだ、ということでした。

ボランティア活動が好きで、いろんな施設の清掃奉仕や募金運動などに尽力される団体や、そういった団体に所属して積極的に活動される人は昔から多くいらっしゃったと思いますが、特にそうした方々ではなく、むしろボランティアなどに全く興味がなかったような人が、この震災を契機として何かに目覚めたといえるような方々。

また、そういう方々は、人の役に立てることが喜びであり、ボランティアを必要としてしてくださる方がおられることそのものに感謝しつつ、自身の成長の糧にされておられます。そんな人のことを、仏教では菩薩と呼び尊んでおりますが、実際にそうした方々とも大勢出会いました。

妙法蓮華経というお経の中の従地涌出品第十五という章に、地面から涌き出てきた菩薩の話がありますが、地面から涌き出るという意味は、現実の苦しみを突き破り、乗り越えることだと解釈されています。まさしく、このたびの震災の苦しみを乗り越えた方々である菩薩が大勢現われたということであるといえると思います。

復興には、そうした菩薩の活躍が極めて大きな力となります。なんの見返りも求めず、世のため人のために一心に働くことが、結局は自分のためであるという、そのことを改めて肝に銘じ、これからあと何年かかるかわからない復興活動ではありますが、一歩ずつ取り組んでまいりたいと思います。

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天命に従い、人事を尽す

約1ヵ月ぶりの更新であります。極めてのんびりなマイペースです、はい(^^;)
当然この間、何もしていないわけではなく、むしろ公私とも忙しすぎて、ブログ更新にまで手が伸びなかったということでありますのでご了承の程。

言い訳はこれぐらいにしまして・・・。

さて、この間も色々と勉強やら研鑽をする中で、ふと思ったことがあります。
「人事を尽して、天命を待つ」という言葉があります。読んで字のごとく、一生懸命やることをやって、結果は神仏のはからいとか、おぼしめしにお任せします、という非常に謙虚な姿勢を表わした言葉です。

ただ、無神論者にとってみたら、「やればやった通りの結果が出るだけの話。天命を待つなどというのは消極的な態度だ。」という意見も聞こえてきそうですが、今のこの不況の世の中が逆に幸いしているのか、あまりそういうがむしゃらな意見や態度は減少傾向にあり、まさしく「天命を待つ」姿勢のほうが増えているようにも感じられます。

ところが、この謙虚そうで響きもよく感じられる「人事を尽して、天命を待つ」という言葉、よーく考えたら、欠陥があるのではないかと思いました。

「人事を尽す」だけを切り離してみると、じゃあ、どういうふうに人事を尽すの?という疑問が湧いてきます。もちろん、さまざまな場面で、その時々に正しいこと、やるべきことをキチンとやること、ということではありますが、その時点で、「天命」いわば神仏が願っていることを知らずに、あるいは無視してする努力というのは、結局ムダが多いのではないでしょうか。

つまり、あらかじめよく知っておかなければならないのは「天命」のほうであり、それをよく理解した上で、じゃあ、どのように人事を尽すかという具体論に進んでいけるのだと思います。

要するに、「天命に従い、人事を尽す」という言い方のほうが、より本質をついていると思うのです。

仏教には、「自灯明・法灯明」という言葉があります。以前にも何度か紹介させていただきましたが、かんたんにおさらいすれば、「自分の進むべき道は、他に頼らず自分で判断すべきであるが、その判断基準は、あやふやなものによらず真理・法を基準にしなさい」という教えであります。

神仏の願い、真理・法を追求しつつ、それを道標としながら、他人のせいにしないで自分で進む、ということでありましょう。

「天命に従い、人事を尽す」とは結局、「自灯明・法灯明」を言い換えただけの言葉のようにも感じますが、「自灯明・法灯明」をうまくブレークダウンしているように思え、気に入ってます。胸に秘めて精進してまいりたいと思います。

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がんばろう!○○



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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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facebookもやってますが、本名なので、一応ここでは伏せておきます(^^;

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