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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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問題意識を持つ、とは?

1ヶ月以上間が開いてしまいました。11月から12月にかけて、弊社は年度変わりのため、毎年のことながら多忙を極める時期であります。充実した中味のブログにしたいという当初の方針を貫くため、日々ちょこっと気づいたことなどは<Twitter>のほうでつぶやいておりますので、もしご興味がおありになりましたら、そちらのほうもご覧いただけたら至極光栄に存じます。

さて、「問題意識を持ちなさい」ということを、よく企業などでは幹部や先輩などから言われ、指導いただいていると思います。私も以前の会社に勤務していたときはそうでした。ところで、この「問題意識」とは、何に対して持つことを指すのかを考えるとき、ごく普通には、仕事そのものに対してであることは当然であると思われます。企業ならば、社会貢献ということが一つの理念であることは誰しも理解できますが、そのためには利益が上がらなければ、企業の存続意義は無いわけであって、利益を上げるために売り上げを上げる、コストを下げる、さらに、売れるものを作るというあくなき努力を続けるのが当然であって、そのために問題意識を常に持ち、問題があれば具体的に浮き彫りにし、それを排除するという活動を断つことなく続けなければならないわけです。

ところが、この問題意識を過剰に持ち過ぎると、知らず知らずのうちに否定的、批判的、排他的な感情が生じ、極端にいうと、問題意識を持つこと自体が新たな問題を作っているようなケースも往々にして起こっている感じもします。

仏教では、内省ということの重要性が説かれます。内省に対して、反省という言葉があります。反省とは、問題や過ちを明確にし、それを悔い改めるという、まさに、問題意識を持つことと似ていると考えられますが、内省とは、反省と若干ニュアンスが異なり、一切衆生を救おうとする仏の願いと、自分の願いや行動を照らし合わせ、仏の願いからどれだけずれているかを認識し、仏の境地を目指してあらたな努力をしようと誓願すること、と説かれます。

つまり、周囲に対して問題意識を持つことは悪いことではありませんが、そのことだけでは不十分であり、それ以前に、自分自身に問題がないかどうかを常に意識し、自分を高めていくことが重要であると考えられます。

要するに、「問題意識を持ちなさい」というのは、他に対してだけでなく、それ以上に自分に対して持つことが大事なことなのではないかと思えるのです。

仏は、すべての人間を仏にしたいと願っておられるというのが仏教の教えです。であるならば、人間の側からしたら「仏になりたい!」と願うことこそ、仏の願いに適うことであると思いますし、そのような意味のことが経典にも説かれてあります。メーカーで働くのも、サービス業で働くのも、役所に勤めるのも、究極的には「一人ひとりが神仏の境地にまで達する」ということが最終目的でありましょう。

さらに、周囲に起こってくる問題は、すべて自分が向上するための試練であるという受け止め方ができれば、問題に対して肯定的、積極的な対応ができると思います。

「問題は私の成長の糧」という受け止め方が自然にできるようになりたいものです。

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荘厳について

またまただいぶ間が開きました。

今回は、「荘厳」ということについて学ばせて頂きましたので、例によってメモっておきたいと思います。

まず読み方と意味について。

荘厳とは仏教用語で、一般には「そうごん」と読まれることが多いようですが、「しょうごん」と読む場合は少し意味が変わるようです。

「そうごん」と読んだ場合は、威厳があって気高い様子といった「状態」を表わす意味になり、「しょうごん」と読んだ場合は、そういう状態を作り出すための「動作」を表わす意味になるということです。

浄土真宗などでは、お供え物を供えたり、きらびやかな仏具を飾って仏壇を整えることを「お荘厳(おしょうごん)」と言うことからも分かります。

次に、荘厳(そうごん)そのものの意義について。

お供え物や仏具で仏壇を整えたとき、その仏壇を見る(拝む)人によって、荘厳の本来の意味である「威厳があって気高い様子」と思えることもあるし、「華美」とか「派手」とか「けばけばしい」という印象をもたれることもあります。

見る人の心によってそれは変わると言ってしまえばそれで終わりですが、どうやら、お供えしたり飾りつけしたりする側の人の心の影響のほうが多分に表われるようです。

つまり、「尊いものをより尊く整えたい」「見る(拝む)人がありがたいと思える心を起こして頂きたい」といった、人の救われを願ってお供え、飾りつけを行なうならば、その心が具現化され、見る人の心にも感応するというのです。ただたんに、「よく見せたい」「立派に見せたい」という思いからは、荘厳な雰囲気は醸しだされず、時に「華美」「派手」「けばけばしい」と感じられてしまうということです。

男女問わず、服装や化粧などにも同じことがいえそうです。外見だけをよく見せようという心では、他人に好印象をもたれず、逆に、質素・簡素な服装であっても、世のため人のためをいつも考えている人のお姿、立ち居振る舞いには、気高さや品格を感じられるものです。

そして、世のため人のためを考えられるようになるためには、やはり、自分自身の尊さを認め、自分を磨くことが大事である、とまあそういうことのようです。

自分を磨くことを、常に意識できるようになりたいものです。

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親に対する感謝が出発点

先日、イイ話を聞いたのでメモっておきます。
幼少年期において、人物をつくるのに欠かせない三つの要素があるといいます。

一つ目は「貧乏」。
裕福で、何不自由ない生活を続けていると、ちょっと苦境に立たされると尻込みしたり、へこたれたりしてしまい、いわば我慢がきかなくなってしまうというのです。よく分かりますね。では、本々裕福な家庭はどうしたらよいかといえば、とにかく、子どもが欲するものを際限なく与えるのでなく、我慢させることが必要ということです。

二つ目は「読書」。
これは説明の必要もないほど明白ですね。見聞を広めることはもちろんねらいの一つとしてありますが、たんに文字を読むということだけでも脳を活性化させることにつながります。

三つ目は「母親の看下」。
これが特に大事で、小さい子どもは、親の、とりわけ母親の愛情を肌で心で感じながら成長することによって、愛情が豊かになり、人を思いやる心が醸成され、世のため、人のために働く大人になれるといいます。

昨今の痛ましい事件を見聞きすると、犯罪を犯す人のほとんどは、親の愛情が極度に不足してしまっているのではないかと思われます。

仏教では、全ての子どもは仏さまからの預かりものと教えます。大人には、子どもを大事に、そして立派に育てる義務があることは、改めていうまでもないことですが、その大人が、大人に成りきれていないケースが多々あることが根本的な問題であるようです。

さらに仏教には、どんなにひどい親であろうとも、親を恨んでよいという教えは一つもありません。大人に成りきれていない大人のほとんどは、親を恨んでいる人なのではないでしょうか。「なんといわれようと親を許せない!」という人は、むしろ「私が親を立ち直らせてあげるんだ」ぐらいの気持ちになれるような意識改革が必要でしょう。

とにかく、親あっての私であることはまぎれもない事実なわけであり、親に感謝ができることがすべての出発点であると思います。

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習慣を変えるためには

一か月以上のご無沙汰でありました。鬼のような忙しさから解放され、ようやく通常業務に戻れたといった感じであります。

ちょっと前に、<親父の小言>というサイトを見つけました。株式会社 山十さんのサイトの中の1ページです。居酒屋のトイレに入ると、よくトイレの壁などに貼られているものを始めとして、人生の教訓がたくさん記載されています。

思わず唸らせられる言葉ばかりですが、それを実生活にあてはめて実行するということがなかなかできない。「タバコは身体に悪い」とさんざん言われ、自分でも重々分かっているのにやめられないということと同じです。習慣を変えるというのは難しいということです。

結局、習慣を変えるために一番手っ取り早いのは、所詮、人間は弱い生き物であり、自分でなんとかするのは難しいので、回りから後押ししてもらうことが効果的です。特に、自分が尊敬する人、敬愛する人から言われたことならば、たいていの人はその通りにするでしょう。

仏教では、「おかげさま」ということがよく言われます。自分の努力のみで全てどうにかなるならば、人はたった一人で、周囲と一切関わらずとも生きていけるわけですが、そうはならない。仕事でもなんでも、ほとんどが周囲の協力、おかげさまによって成り立っているわけです。言い方を変えると、「生かされて生きている」ということです。

常に、生かされていることに感謝することが大事なわけであり、感謝の継続によって、習慣も徐々に変えていけるようになる、ということでありましょう。

とはいっても、まずは「これならできそうだ」ということから変えていく、そういう小さい積み重ねを続けていきたいと思います。

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命とは?

先日、大事なことを学ばせていただく機会があったので、またメモっておきたいと思います。

ズバリ、命とは何か?・・

のっけから一つの事例を紹介したいと思います。

2年前に脳梗塞で亡くなった私の父の話です。父は、患ってすぐに息絶えたのでなく、意識は無くしておりましたが、呼吸はしていました。病院のベッドに横たわる父の横で、医者の先生が「いよいよ危ない」と申され、それから私は一晩中ずっと付き添っておりました。夜が明け、朝8時頃だったと思います。荒いながらも一定のリズムで呼吸をしていた父が、少し痙攣したかなと思ったら、次の瞬間には呼吸が止まっていました。その後しばらくして、医者の先生から正式に臨終を告げられました。

ついさっきまで息をしていたのが、次の瞬間には息が止まり、その後二度と息を吹き返さなくなったわけです。目の前で横たわっている父の身体に、見た目上の変化は何もないのです。

父の呼吸を続けさせていた何か、父の心臓を動かしめていた何か、その何かが介在しており、その何かの介在が無くなったという、目には見えませんが、そういう状態に変化したということなります。では、その何かは、どこに行ってしまったのでしょうか?

もう一つの例えとして「電気」の話をします。電池のプラスとマイナスに導線を当てて豆電球をつなげば、豆電球は光を発します。導線を電池から離したり、導線をハサミで切ったりすれば、豆電球の光は消えます。しかし、「電気」は無くなったわけではなく、電池に充満しているわけです。

つまり、こう考えられます。生き物を呼吸させ、心臓を動かしている何かは、消えて無くなるのでなく、どこかに充満している存在であると。その存在こそが、命と呼ばれるものの正体であると。

ここまでは、科学や宗教を抜きにしても、誰もが納得できると思いますが、では、その命というものは(命の大本というか源というか)、それはどこにあるのかと突き詰めていったとき、突然今の科学では証明ができない問題となり、倫理や哲学、さらには宗教によって解決が求められるのだと思います。

仏教では、宇宙全体が一つの命であり、命の源と説きます。さらに命とは、「命を吹き込もう=生かそう」とする機能を含んだものであると説きます。

つまり、生かすはたらきこそが宇宙意思であり、言い換えれば自然のはたらきであるといえます。身体から命が無くなるのは、老いや病気による経年劣化により、肉体が限界を来たした結果であり、それも自然現象なわけです。

逆に、(自分をも含めて)殺そうとする意識や行為は、宇宙意思に逆らうことであり、それなりの報いを受けることになるでしょう。

そういう意味でも、命が授かることは貴重なこと、尊いことと結論づけられるのだと思います。

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諸悪莫作

<羽生~「最善手」を見つけ出す思考法~>という本を読みました。というか、だいぶ以前に購入して一通り読んだときは、「なるほど、そういうものかなあ」という程度の感想しか持ちませんでしたが、私自身もネット将棋で何局も対戦するうち、なんとなく、羽生三冠の強さの秘密の糸口は分かったような感じになりました。

本書は、羽生三冠が書いたのでなく、保坂和志さんという一作家が羽生三冠の将棋をもとに著された、将棋の本というより、サブタイトルにもあるように思考法に焦点を当てた、いわば人生哲学といえる書です。

保坂氏、「羽生は、勝つことを考え戦っているのでなく、常に最善手を見つけるために考え、戦っている」と述べられています。さらにそれは、自分ばかりが最善手を指すのでなく、対局相手も最善手を指すであろうことを大前提としている、といいます。

もっと簡単にいえば、「自分との戦い」であるでしょうし、「自分と戦っている者同士の戦い」ということになるでしょうか。そして、最善手を考えるということは、いかにミスをしないか、ということでしょう。

仏教に「<七仏通戒偈>(しちぶつつうかいげ)」という教えがあります。これは、仏の教えを端的にいうと何かということの結論的教えであり、それは以下の偈文です。

 諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

現代語に訳すと「もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行ない、自らその心を清める、これが諸仏の教えである」となります。

この七仏通戒偈の最初に「諸悪莫作:もろもろの悪をなさず」があるのは非常に意義深いと感じます。いかにミスをしないか、というのは、まさにこの「諸悪莫作」の実践であると思えるからです。

良い習慣を身につけるためには、まず悪い習慣と思われることをたった一つでもいいから止めることから始めることが大事と学ばせていただいたことがあります。

諸悪莫作、常に心すべき教訓であると思います。

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お釈迦さまは何故悟れたのか?

仏教は、お釈迦さまが悟りを開かれたその瞬間が始まりだといわれますが、では何故、お釈迦さまは悟りを開くことができたのでしょうか。

お釈迦さまは、今から約2,500年前(紀元前500年頃)、北インド(現在のネパール)のカピラバストという国の王子として生まれました。国王のご子息でありますので、何不自由ない境遇の中ですくすく成長されたわけですが、まだ幼少の頃のある日、耕された畑の土の中から出てきたミミズを、舞い降りてきた小鳥がついばんで食べるという光景に出くわしたとき「一方が生きるために、もう一方の命が奪われる。なんとむごいことだろう」と真剣に悩まれたという話が仏典に残っています。

ごく普通の人なら、小鳥がミミズを食べる光景を見てショックを受けて、思い悩んだりするようなことはないでしょう。つまり、ひと言でいうならば、お釈迦さまは普通の人とはかけ離れた、とてつもなく尊い感性を生まれつき持っていた特別な人だったのだ、ということがいえそうです。

ではなぜ、お釈迦さまはそういう感性を持って生まれてこられたのかということになりますが、いろいろな仏典やお経をひもとくと、お釈迦さまの前世に大きく起因していそうだということが分かります。→ <ジャータカ物語>

ジャータカ物語は、お釈迦さまが前世ウサギだったとき、行き倒れになった老人を救うために、自分の身を火で焼いて差し出したとか、ある国の王子だったとき、飢えで苦しむトラの親子のために自分の身体をトラに食べさせたなどなど、お釈迦さまの前世をお釈迦さま自身が説いているという内容です。

つまり、お釈迦さまは果てしない生まれ変わりの過去世において、他を救うために尊い犠牲を数多く払ってきたその善い報いとして、無上の悟りを得る身になることができたというわけです。

仏教では、他を救うとともに自分が向上するという、そのことが仏の(宇宙の)意思であり、はたらきであり、誰にでも具わっている性質であるということを説いています。要は、果てしない過去からすでにお釈迦さまは仏の意思・はたらきを悟っておられたということになります。

お釈迦さまの前世をそのままマネすることはできませんが、万分の一でも見習い、尊い行ないができるよう常々心がけたいものです。

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「生かされている」という意識改革

小林正観氏の著書で『100%幸せな1%の人々』に、以下のような詩が掲載されています。

今のあなたに、今の夫がちょうどいい
今のあなたに、今の妻がちょうどいい
今のあなたに、今の親がちょうどいい
今のあなたに、今の子供がちょうどいい
今のあなたに、今の兄弟がちょうどいい
今のあなたに、今の友人がちょうどいい
今のあなたに、今の仕事がちょうどいい
死ぬ日もあなたにちょうどいい
すべてがあなたにちょうどいい

仏教の経典の一つに大蔵経(だいぞうきょう)というものがあり、その中で説かれている教えを現代的に解釈したものということです。

自分の望むように事が運ばないと、つい不平不満を口にしたりしがちですが、大調和の世界からみれば、すべて相応しく、丁度よくはからっていただけている、ということです。これをより積極的に受けとめるならば、思い通りにならないことにも感謝して、いわば災い(?)を福に転じていきましょう、という受けとめ方もできそうです。

ただ、この詩の中で一つ心に止まったのが、「死ぬ日もあなたにちょうどいい」ということですが、実際問題、これは解釈が難しいと思います。

生まれてすぐ亡くなってしまう子供や、病気で亡くなる方、事故で亡くなる方、あるいは、自分で命を絶ってしまう方も少なからずおられることも事実です。「死ぬ日もあなたにちょうどいい」は結論かもしれませんが、心底そのように思えるようになるには、劇的な意識改革が必要だと思います。

その意識改革とは、これも何度も書かせて頂いておりますが、「自分一人の力で生きているのではなく、すべてによって生かされている」ということであり、生かされているように生きる、ということです。特に、他人を殺めたり、自分すらをも殺めたりする行為は、すべてを否定する重罪であるといわなければなりません。

そして、生きとし生けるものは、いずれ必ず死を迎えますが、なぜ死ぬのかといえば、「生まれてきたから」ということにほかならないわけです。生かされるままに精一杯生き、生かされるままに死を迎えるということだろうと思います。このことに沿うならば、(自殺は論外ですが)病気で死のうが事故で死のうが、死に方は問題ではないということになります。

まあとにかく、「生かされている」という意識改革こそ、生きていく上で最も大事なことであると思います。

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ブスの25箇条

私の愛読誌の一つである<致知(ちち)>の、本年3月号に掲載されていた内容で、印象に残ったものがありましたので紹介したいと思います。

元宝塚歌劇男役トップスターで、現在は女優として活躍されている ”貴城けい”さんが寄稿されていた内容です。宝塚歌劇団の中に「ブスの25箇条」というのが貼り出されていたのだそうですが、それは以下のようなものだということです。

1.笑顔がない
2.お礼を言わない
3.おいしいと言わない
4.目が輝いていない
5.精気がない
6.いつも口がへの字の形をしている
7.自信がない
8.希望や信念がない
9.自分がブスであることを知らない
10.声が小さくイジけている
11.自分が最も正しいと信じ込んでいる
12.グチをこぼす
13.他人をうらむ
14.責任転嫁がうまい
15.いつも周囲が悪いと思っている
16.他人にシットする
17.他人につくさない
18.他人を信じない
19.謙虚さがなくゴウマンである
20.人のアドバイスや忠告を受け入れない
21.なんでもないことにキズつく
22.悲観的に物事を考える
23.問題意識を持っていない
24.存在自体が周囲を暗くする
25.人生においても仕事においても意欲がない

いかがでしょうか。思い当たる項目があるのではないでしょうか。いやはや、私自身も思い当たることがいくつもあります。

これは「ブスの25箇条」でありますので、ブスになりたければ、この25箇条を守って実践するといいですよ、ということになるわけですけれども、もちろん真意は逆なわけですね。これらのことを一つ一つ克服していけばブスではなくなるということです。もう一つ付け加えるならば、ブスとは見た目のことではないということです。

この25箇条に共通する精神は何かというと、どうやら自己中心ということになりそうです。自己中心をより正確にいうと、自分の煩悩中心ということです。つまり、これはもう何回も紹介していることでありますが、自分の仏性を中心にすれば、この25箇条は一挙に克服できることになるわけです。

自分の仏性を中心にするということは、要するに、自分の尊さに気づき、全てによって生かされていることに感謝するということにほかなりません。

この「ブスの25箇条」を一つのチェックリストにして、自分は今、煩悩を中心に生きているのか、仏性を中心に生きているのかということを常々内省していけるようになりたいものです。

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世界がぜんたい幸福にならないうちは・・・

<農民芸術概論綱要>というのをご存知でしょうか。これを聞いてピンとくる人は、相当な宮沢賢治フリークといえる人だと思います。ですが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というフレーズを聞けば、ほとんどの方がご存知であろうと思います。このフレーズは、農民芸術概論綱要の序論のところに記述されています。

さて、この「世界がぜんたい・・・」という部分ですが、なぜ「世界 ぜんたい 」でなくて「世界  ぜんたい」になっているかというところがポイントです。

「世界 ぜんたい 」と言う場合は、バラバラになっている一つ一つの世界を全部まとめた全体という意味合いに感じられますが、「世界  ぜんたい」と言うと、元々一つしかない大きな世界、その世界全体という意味合いに感じられます。つまり、法華経に傾注していた宮沢賢治は、世界=地球(もっといえば宇宙)を法華経観に基づいたかけがえのないたった一つとして捉えていたのだ、というのです。

以上のような解説をしているサイトをあちこちで拝見し、なるほどなーと思わせられましたが、どうも理屈っぽい感じも否めません。

世界とは元々たった一つであるという前提に基づくならば、わざわざ「ぜんたい」という必要はないような気がします。そこで、この農民芸術概論綱要をざっと読んでみてふと思ったのは、「ぜんたい」というのは、「いったいぜんたい」などというときの「ぜんたい」の意味ではなかろうかということです。

「いったいぜんたいどうなってるんだ!?」などというときの「ぜんたい」です。つまり、「ぜんたい」とは、「そもそも」とか「なにしろ」とか「とにかく」という意味なのではなかろうかということです。

本サイトの冒頭紹介にも書かせて頂いているとおり、釈尊は、あらゆるものが仏性を具え、光輝いているということを悟られたわけですが、要するに、世界中の一人残らず、一人一人がこの釈尊の悟りに達することこそが、世界平和であり、個人のほんとうの幸福であるという受け止め方ができると思われます。

そのためには、多くの思想、哲学、宗教が存在するこの世界においては、否定でなく肯定、排他でなく協力というやり方が重要になってくるのではないでしょうか。

まずは、一人一人自らが、自分の尊さに気づく、またそういう人を増やすはたらきかけを実践していくことが大事なことであると思います。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2013年12月より札幌在住。
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