先日、大事なことを学ばせていただく機会があったので、またメモっておきたいと思います。
ズバリ、命とは何か?・・
のっけから一つの事例を紹介したいと思います。
2年前に脳梗塞で亡くなった私の父の話です。父は、患ってすぐに息絶えたのでなく、意識は無くしておりましたが、呼吸はしていました。病院のベッドに横たわる父の横で、医者の先生が「いよいよ危ない」と申され、それから私は一晩中ずっと付き添っておりました。夜が明け、朝8時頃だったと思います。荒いながらも一定のリズムで呼吸をしていた父が、少し痙攣したかなと思ったら、次の瞬間には呼吸が止まっていました。その後しばらくして、医者の先生から正式に臨終を告げられました。
ついさっきまで息をしていたのが、次の瞬間には息が止まり、その後二度と息を吹き返さなくなったわけです。目の前で横たわっている父の身体に、見た目上の変化は何もないのです。
父の呼吸を続けさせていた何か、父の心臓を動かしめていた何か、その何かが介在しており、その何かの介在が無くなったという、目には見えませんが、そういう状態に変化したということなります。では、その何かは、どこに行ってしまったのでしょうか?
もう一つの例えとして「電気」の話をします。電池のプラスとマイナスに導線を当てて豆電球をつなげば、豆電球は光を発します。導線を電池から離したり、導線をハサミで切ったりすれば、豆電球の光は消えます。しかし、「電気」は無くなったわけではなく、電池に充満しているわけです。
つまり、こう考えられます。生き物を呼吸させ、心臓を動かしている何かは、消えて無くなるのでなく、どこかに充満している存在であると。その存在こそが、命と呼ばれるものの正体であると。
ここまでは、科学や宗教を抜きにしても、誰もが納得できると思いますが、では、その命というものは(命の大本というか源というか)、それはどこにあるのかと突き詰めていったとき、突然今の科学では証明ができない問題となり、倫理や哲学、さらには宗教によって解決が求められるのだと思います。
仏教では、宇宙全体が一つの命であり、命の源と説きます。さらに命とは、「命を吹き込もう=生かそう」とする機能を含んだものであると説きます。
つまり、生かすはたらきこそが宇宙意思であり、言い換えれば自然のはたらきであるといえます。身体から命が無くなるのは、老いや病気による経年劣化により、肉体が限界を来たした結果であり、それも自然現象なわけです。
逆に、(自分をも含めて)殺そうとする意識や行為は、宇宙意思に逆らうことであり、それなりの報いを受けることになるでしょう。
そういう意味でも、命が授かることは貴重なこと、尊いことと結論づけられるのだと思います。
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