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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

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カテゴリー「仏教」の記事一覧

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ARMS DOWN! キャンペーンの紹介

今回は、「ARMS DOWN! 共にすべてのいのちを守るためのキャンペーン」について紹介させていただきます。詳細は、下記バナーのリンクをご参照ください。

arms0

本ブログの右側の「トピックス」にも同じバナー&リンクを貼っております。

このキャンペーンは、<WCRP>(World Conference of Religions for Peace:世界宗教者平和会議。日本委員会のサイトは<こちら>)が主催しています。

ARMSとは武器もしくは武器を持った手を意味し、DOWNはそのまま「下げる」の意味ですので、ARMS DOWN! とは、「武器を捨てよ!」という、比較的強い言い回しの意味になるのだそうです。

2008年の世界全体の軍事費は、なんと140兆円にもなるそうで、年々増加の一途をたどっているということで、その1割の14兆円を削減できれば、その分を飢餓や貧困に苦しむ国の人びとの援助に賄うことで、全て救うことができるのだそうです。

仏教では、一切衆生の成仏(一人ひとりが仏になること)を究極目標として掲げていますが、その具現化は、とりもなおさず世界平和ということです。そのための一つの施策として、人を殺戮するための、核兵器を始めとするさまざまな武器を減らそう、無くそうということは、誰もが考えつくことであるといえると思います。

この「ARMS DOWN! 共にすべてのいのちを守るためのキャンペーン」のサイトでは、Web上にて署名をすることができるようになっていますので、ぜひ多くの人に賛同、協力を呼びかけたいと思います。ちなみに、全世界での署名目標は、今年1年で5,000万人だそうです。

↓クリック宜しくお願いしますm(_ _)m

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占いごとはツール

西暦2010年、平成22年最初の書き込みです。なお、喪中でありますので、新年のあいさつはエンリョさせて頂きます。

さて、今年の干支(えと)は「庚寅(かのえとら)」です。干支を聞かれて、「トラ年です」とはほとんどの方が答えられると思いますが、干支とは、正確には十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)のことなので、「干支は?」と聞かれたら、「庚寅です」と答えるのが正解となります。

そもそも十干とか十二支って何?という話をしたらどんどんキリがなくなりますが、簡単に言えば、十干は五行説(木、火、土、金、水)と陰陽道(陽と陰、プラスとマイナス、兄と弟・・など)が合わさってできたもの、十二支は方位を表わすものであり、いずれも古代中国の、いわば統計に基づく暦占いのようなものといっていいのではないかと思います。

このへんまでは、たいていの方がご存知と思われますが、同じく古代中国から伝わる、方位や性質を表わすものとして「九星(きゅうせい)」というのがあることを知っている人はだいぶ減ると思われます。九星気学とか、たんに気学といわれたりするもので、年回り以外に、月にも時刻にも当てはめられています。

九星でいうと、今年は八白土星(はっぱくどせい)であり、八白には変革とか改革という意味があり、さまざまな業界で変革がもたらされる年になるといわれます。ちなみに、昨年の2009年は九紫火星(きゅうしかせい)であり、九紫には離別、明らかなどの意味があり、その意味では、政界では自民党が与党から離れたり、芸能界では薬物使用で逮捕者がでるなど、秘密にしていたことが明らかになったりということがあった年だったといえそうです。

ちなみに、五黄土星(ごおうどせい)は地震、破壊、生成、消滅という意味があり、近年では、2004年の新潟県中越地震やスマトラ沖地震、1995年の阪神・淡路大震災はいずれも五黄の年であります。かといって五黄の年に必ず大地震が起きているかというと必ずしもそうなっていませんが、五黄の年を中心にして前後年あたりに、震度6クラスの大きな地震が起きているのは事実のようです。

このように書くと脅しともとられそうですが、脅しなどでは決してなく、逆に、九星をうまく利用・活用して、将来への備えを万全にしましょうというのが目的であります。

ここまで書いてきておいてなんですが、私はあまり占いのたぐいにはとらわれず、本道はあくまで、真実の道理・真理を説く仏教を究めることと考えておりますので、干支や九星は、そのための一つのツールとして少しは学び、用いてまいりたいと思います。

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お辞儀の意義

12月も、いつのまにか半ばになり、今月が「年度始め」となる弊社の慌しさもだいぶ和らいできたところですが、これから年末年始に向けて再びバタバタしてきそうなところであります。

そんな中、また最近聞いた話の中から印象に残ったものを記しておきたいと思います。

さて、お辞儀はどういうときに、どんな目的でするものでしょうか?バカな質問と思われるかもしれませんが、このお辞儀には深い意義があるというのです。普段、私たちは、人に会ったときに「おはようございます」「こんにちは」といった言葉とともにお辞儀をします。また、廊下等で目上の人や外部の方とすれちがうときなどもお辞儀をすると思います。

お辞儀は、相手に対して敬意を表わす、相手を敬う意義があることは誰でもうなずかれることと思いますが、それは第二義なのだそうです。では、第一義はなにかというと、相手にお辞儀をするという行為を通して、自分自身を敬うのであるというのです。つまり、その人が自分自身をどれだけ敬い、尊んでいるかが、お辞儀の仕方に表われるということになるのです。

人は、他人から尊重されないと満足できない部分をもっていますが、それは、自分で自分を尊重できていないから、ということになります。仏教では「己の仏性を発見し、磨きあげていく」ことが修行であることを説いていますが、己の仏性を発見するとは、自分が尊い存在であるということを自覚することであります。そして、自分をほんとうの意味で尊べる人こそ、他人を尊び、大切にできるのである、ということも説かれます。

さて、ではどうすれば自分を尊ぶことができるのか。それは、私たちは自分の力のみで生きているのではなく、あらゆるものによって生かされているということに気づくことがまず必要ということです。では次に、生かされているという気づきはどうすれば得られるのかということになるわけですが、それは一番身近な両親に感謝ができること、ということになるようです。

直接的に自分に命を授けてくださったのは両親です。酒乱だろうが暴力をふるわれようが、もしくは自分は親に捨てられたという人でさえも、いまここに自分を存在させてくれたのは両親、その両親、そのまた両親とたどっていくところの先祖であることはまぎれもない事実です。

仏教では、あらゆる存在は、すべて必要あってのものと説いています。ならば、直接命を与えてくれた両親は、一番最初に感謝の対象となるわけです。

誕生日は、一つ年を重ねるおめでたい日でありますが、それ以上に、親に対して「生んでくれてありがとうございます」とお礼をいう日である、とも聞いたことがあります。

親に感謝し、自分を尊び、他人を尊べる修行をつづけてまいりたいと思います。

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掃除の奨め

鍵山秀三郎さんという方をご存知でしょうか?このかたは、株式会社ローヤル(現イエローハット)の創業者で、<日本を美しくする会>というNPO法人の相談役を務めておられる方です。

鍵山氏の人となりについては、こちらをご覧になるとよくお分かり頂けると思います。
→ <鍵山秀三郎氏 「経営と人生 問答塾」>

鍵山氏は、イエローハットを創業する以前から、40年以上も掃除を、特にトイレ掃除を続けられているのだそうです。イエローハットの従業員さんですら、会社のトイレ掃除をしている人がまさか我が社の社長だとは気がつかなかったというエピソードもあります。

掃除というのは、いままでは単に汚れを取り除くこと、という認識しかありませんでしたが、どうもそれ以上に重大な役割というか効果があるようです。つまり、目に見える汚れを取り除くということと同時に、自分の心の汚れを取り除くものである、ということです。

特にトレイ掃除は、その効果は絶大で、トイレ掃除を続けることによってキレイとかキタナイという意識を超越し、食べ物の好き嫌いだけでなく、対人関係においても好きとか苦手という意識をなくすことができるというのです。

さらに、以前にも紹介したことのある<小林正観氏>は、著書の中で、トイレ掃除をすると金回りがよくなる、とおっしゃっておられます。これはさすがにそのメカニズムは分かりませんが、体験されておられる方が大勢いらっしゃることも事実のようです。

要するに、自分の心の汚れを取り除き、物に対して感謝の心を養うことを目的とする掃除ならば、汚れているから掃除をするという意識ではなく、毎日繰り返したんたんと行うものである、ということになります。

仏典に出てくるお釈迦様のお弟子さんでシュリハンドクという人がおられますが、この人はおつむのほうが少々弱く、自分の名前すら覚えられないという人でした。この人は、そんな自分が情けなくなり、こんな自分では仲間にも迷惑をかけるし、仏道修行を続けることはできないとお釈迦様に泣きながらうったえます。お釈迦様は、それならばということで、「塵を払わん、垢を除かん」という言葉だけを唱えながら毎日庭の掃除をするようにと指導したそうです。シュリハンドクは、この「塵を払わん、垢を除かん」を必死で覚え、くる日もくる日もその言葉を唱えながら掃除を続けたところ、ある日、「塵や垢というのは、実は自分の心の塵や垢のことであったのだ」ということに気付き、お釈迦様と同じ悟りを得ることができたのだそうです。

去年あたりから私自身も自宅のトイレ掃除は毎朝行っておりますが、たしかに気持ちがいいものです。10年も20年も、かつ楽しく有難くなれるよう続けていきたいと思います。

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仏の願い

私たちはよく、初詣などで神社・仏閣などにお参りに行き、いろんなお願いごとをします。受験合格、家内安全、無病息災、商売繁盛などなど。けっして間違っているわけではないのですが、もっと崇高なお参りの仕方というのがあるそうです。

お願いごとをするためにお参りにいくならまだしも、拝観料を払って、お堂や仏像・菩薩像などを見るためのたんなる観光として行くこともあるわけですが、いわゆる「見物」だけに終わってしまっては、これまた誠にもったいないことのようです。

仏や菩薩と呼ばれる方々は、皆それぞれ願いを持っておられます。簡単にいえば、人の悩み苦しみを取り除いてあげたい、幸せになってもらいたい、という願いです。特に、その頂点である仏の願いは何かというと、「人を仏にしたい」ということであります。

受験合格、商売繁盛などの願いは、それはそれでよいのですが、仏の願いからすれば非常にちっぽけなことのようです。

つまり、仏の願いである「人を仏にしたい」ということに沿うためには、そこまで願ってくださっている仏に対して「ありがとうございます」という感謝と、私たち自身が自ら「仏になりたい」という願いを持つということが、神仏の御心に最も適ったお参りの仕方である、ということだそうです。

仏になりたいという願いを起こすことを、お経の中には「発菩提心(ほつぼだいしん)」と説かれていますが、この「感謝」と「発菩提心」をもって神仏にお参りをする、このことを心がけたいと思います。

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またもや出張続きでたいへん間が空いてしまいました。で、いつのまにか、王位戦は深浦王位が3連敗の後4連勝して防衛、王座戦は羽生王座が3連勝で防衛と、ひとまず安泰のような結果に終わりました。

さて、最近また印象に残った話を聞いたのでメモっておきます。
人間が生きる上で大事なことを、漢字一文字で表現するとしたらどんな文字が挙げられるかということで、それは「畏(おそれ)」という文字であるというのです。神仏に対する畏敬などという言葉の畏という字です。この畏ということを忘れると、人間はどんどん暴走してしまうというのです。

聞いた話を一言でまとめると以上のようなことですが、畏を忘れて暴走してしまっているというのは、まさに今この混迷した世の中の状態をいっているようにも感じられます。

歴史を振り返ると、エジプト文明は3,000年以上続きましたが、それは太陽を神と崇め、太陽歴を確立させ、太陽を中心に皆が協力し合って生活していたからなのだそうです。そのエジプトを滅ぼした主な王朝はマムルーク朝だそうですが、マムルーク朝は人間中心、実力主義の思想で発展し、君主も世襲ではなく実力者が就いていました。しかし、そのマムルーク朝が栄えたのは300年にも満たない短い期間であり、やがて、より強大なオスマン帝国に滅ぼされることになります。

しかし、そのオスマン帝国も第一次世界大戦で敗戦し、約700年続いた帝国も、現在はトルコ共和国に集約されているわけです。

実力主義を完全に否定するわけではありませんが、どうも神仏を敬う心というものが根底にないと、人間は驕りがでてきて、そうなると怠け心が生じ、向上心が薄れ、やることが保守的になったり、形骸化してしまうようなことに陥りやすくなるように感じます。

神仏を敬う心とか、目にみえない現象を畏れる(恐れる)気持ちは誰しも元々もっているものであり、忘れてならない心であるように思います。

仏教では、すべての現象は、その人を困らせたり、苦しめたりするのでなく、あくまでその人を成長させたいために仏が出してくださるという受け止め方が大事と説いています。現実には困ったり苦しんだりすることは無くならないわけですが、今現在苦しんでいても、そのことをクリアしたとき、苦しんでいたことが有難い現象だったと気づけたという経験を大勢の人が持っていると思います。

神仏に対する畏敬の念を忘れないようにしたいと思います。

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日本の国民性

出張続きでだいぶ間が空いてしまいました。3週間ぶりの更新であります。

第45回衆議院選挙は、いよいよというか、ようやくというか、自公連立政権から民主党に政権が交代されるという結果におわりました。しかし、もちろん大事なのはこれからであって、民主党に政権が変わっても政治の中身がいままでとなんら変わらないものであるようなら、また別の政党に代わっていただかなければなりません。今後の民主党の舵取りに期待したいところです。

さて、ちょっと話は変わりますが、先日、憲法の、特にその歴史について学ぶ機会があり、そのことを少し書きたいと思います。

日本に最初にできた憲法は、聖徳太子が制定した十七条の憲法であることは小学生でも知っていることでありますが、ではなぜ、憲法が制定されなければならなかったのかということについては、忘れている人がほとんどだと思われます。

日本の飛鳥時代、現在の中国に、大統一国家、隋が成立し、聖徳太子はその大国の文化を取り入れるべく、西暦600年に第一回の遣隋使を派遣します。隋に派遣された使徒は、隋の文帝から、日本の政治のあり方について問われますが、そのとき日本にはまだ憲法はなく、しどろもどろになってしまったというのです。その結果、当然ながら日本は隋から見下されることになります。

これではいかんということで、聖徳太子は603年から604年にかけて、冠位十二階と十七条憲法を制定することになります。特に十七条憲法は、それまですでに日本に輸入されていた儒教や仏教の精神を取り入れた内容となっており、607年の第二回遣隋使のとき、小野妹子がそれをひっさげて、ときの煬帝に謁見し、日本を国家として認めてもらえたというようなことが歴史書に記されています。

その後日本は、独自の国家文化を形成し、江戸時代には鎖国などの制度もありましたが、第二次世界大戦敗戦後の昭和22年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から提示された現在の日本国憲法を受け入れ、現在に至っております。

周知のとおり、日本国憲法の第9条は、戦争をしないという内容のものであり、これは、その背景をよくよく検証すると、GHQの提示を無条件に受け入れたということのみでなく、当時の日本国民が同意見であると大いに納得して受け入れたものであるようです。

聖徳太子の十七条憲法も、儒教や仏教を外国のご機嫌取りのために受け入れたわけではなく、儒教も仏教も、これはよい思想・教えであると納得して受け入れているのであり、聖徳太子自身が法華経などの解説書をたくさん著述していることからも伺えます。

つまり、よいものを取り入れて独自のものにしていくというのは、大昔から一貫して日本の国民性であるように思われます。

一方、見方を変えると、回りの意見に流されやすいという面もあるのかもしれませんが、とにかくよいものをよいと認め受け入れる柔軟性は、諸外国に誇るべきところであると感じます。柔軟性という性質は、進歩するのに大事な要素であると思います。

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過去は変えられる

最近学ばせて頂いたことの中から一つメモさせて頂きます。

『過去は変えられない、未来は変えられる』とは、世間一般の常識であり、誰もが納得できることだと思います。これは、もっと限定的な見方をすると、「行為」については、ということであります。つまり、過去にやってしまったことは変えようがないことはいうまでもなく、また、これから起こる未来については、まだ何もやっていないので、自分の意思でいかようにも変えられるということです。

さて、「行為」についてと書きましたが、もう一つの視点があります。それは「意識」ということです。あのとき、こんな風に思ってこう行動した、こういうことを考えていたのであんなことをやってしまった、という経験が誰にでもあると思われます。そこを、あのときもっとこういう考え方をしていれば、もっと違う行動がとれたハズ、それによって、もっと違った結果になったハズ、という思いになった経験も誰にでもあると思います。

それによって、現在の考え方を変えることができ、考え方が変わればおのずと行動も変えることができるわけなので、「意識」についてのみいえば、過去に思ったことは変えられる、といえることになります。

そして、その意識はどこに向かって変化・収束していくかといえば、これはもう何度も書いていることですが、仏教でいえば「仏性(ぶっしょう)」でありますし、キリスト教などでいえば「神の御心(かみのみこころ)」ということになるでしょうか。

つまり、人間、いや、生きとし生ける全てのものが「仏性」とか「神の御心」という一点に尽き進んでいくという捉え方からすると、未来は変えられない、というより、未来辿り着くところはそこに決まっている、ということにもなります。

全てそこに向かって「生かされている」ということが、仏教の捉え方の一つでもあります。

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参拝のすすめ

少し間が開きましたが、先日聞いた話をメモっておきます。

仏教学者(?)の毎田周一氏が説かれている内容で、他力の信心五箇条というのがあるそうです。以下の通り。

1.人の悪口を言わない
2.人を咎めない
3.人の恩を知る
4.人に教えない
5.人に恩を着せない

毎田氏は、特に親鸞上人に傾注されていたようなので、絶対他力という思想は浄土真宗で説かれている信仰形態のようです。

聞いた話は以上で、上記の五箇条についてそれほど詳しい解説などはありませんでしたので、以下は私の感想です。

仏の救いを信じて全てを仏に任せきる・・・西洋の一神教にも似た思想に感じますが、一点大きな違いがあります。それは、西洋の一神教の基本は、信じるものは救われる、逆にいうと信じないものは救われないということであるのに対し、仏教、特に浄土真宗の思想は、信じようが信じまいが既に救われている(生かされて生きている)ので、仏に対する感謝の意を込めて「南無阿弥陀仏」と唱えましょう、ということです。

浄土真宗の思想を理解すると、上記の五箇条の中で、「4.人に教えない」ということの意味は、「仏が人を教え導くのであるから、人が人に教える必要はない」というようにも受け止められます。

そうはいっても、現実の生活において、親は子どもに生活の基本を教えなければならないし、教師は生徒に学問や道徳を教えなければなりません。しかし、生活の基本や学問や道徳、さらには法律などをどれだけ勉強しても、それを守ったり、有効活用する心がなければ、それらを勉強したことにはならないわけです。もちろん、勉強は大事でありましょうが、それ以上に大事なのは心であるということです。

つまり「4.人に教えない」ということの真意は、俗世間のことがらについて教えないといっているのではなく、もっと深い、情操心とか信仰心のことをいっているのだと考えられます。

神仏を敬う心というものは、理屈を説明されて養われるものではないことは誰しも体験していることだと思います。では、どうしたら神仏を敬う心を養うことができるのか。それは、実際に神仏を敬う行為を、最初は形の上だけでも繰り返し実行してみるということが効果的であるようです。具体的な方法は、神社や仏閣、また宗派とか海外の寺院や教会でもいろいろ違いはありますが、とにかく(正しい)宗教の雰囲気に触れてみるというしかないようです。

幸い日本人は、初詣、お宮参り、お彼岸、お盆、クリスマスなどなど、宗教的イベントが生活に根ざしている民族でもありますので、折に触れ、神社やお寺にお参りにいって、神仏を敬う心を養うことが大事なことであると思います。

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自行と化他行

仏教、特に大乗仏教徒の修行には、自分自身を磨いて向上させるための自行と、人に教えを説くことによって人を救う化他行があります。

自分自身を磨き向上させる修行にも色々ありますが、第一には仏壇やご宝前の前でお経を声に出して読んで、神仏や先祖に感謝を捧げる読経供養があります。

最近ふと気付いたことですが、よくよく考えると、神仏や先祖に感謝を捧げる読経供養は、必然的に人の幸せや世の中の平安を祈りつつ行いますので、これもつまりは化他行であるといえます。

また、人に教えを説くことによって人を救う化他行は、説いた教えを聞いてくださる人のおかげで、結局は自分の心が整っていく=救われるわけなので、これもつまりは自行であるといえます。

要するに、自分を救う行も人を救う行も、厳密には区別できないということになりそうです。

さて、自行も化他行も、一言でいうと修行ということでありますが、<以前の書き込み>で、

10回繰り返すことをモノマネという。
100回繰り返すことを勉強という。
1,000回繰り返すことを練習という。
10,000回繰り返すことを鍛錬という。

ということを書かせて頂きましたが、このたび新たに付け足したいと思います。

100,000回繰り返すことを修行といい、
1,000,000回繰り返すことを精進という。

そういえば、心理学・教育学・社会学博士の<小林正観氏>が、「ありがとうを100万回言うと奇跡が起きる。」ということを著書で述べておられました。尋常でない回数ですが、とにかく、よいことを日常茶飯事繰り返すことはとても大事で、良いことに違いはないようです。

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がんばろう!○○



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2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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