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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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命は一つ

このブログの冒頭に、釈尊の悟りということについて端的に書かせて頂いておりますが、実際のところは、釈尊が「悟った」というのはつまり何だったのかという点は、いまもって仏教学者の間でも完全に明らかにはなっていないのだそうですが、たしかに、理屈理論で解明しようとすると無理があるようです。

釈尊が悟りを開いたときの第一声は、次のようだったといわれています。
「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるをもっての故に証得せず」

この意味は、
「不思議だ。不思議だ。一切衆生はみな、仏と同じ智慧と徳のすがたをそなえている。では、なぜ一切衆生は、闘争と苦悩の生活を続けているのだろうか。それは、正しくものごとを見ることができずに妄想をくり返しており、仮の現れである自分自身に執着しているために、自分の本質が仏と同じ輝かしいものであることに気付かないでいるのだ。」

ということです。また、釈尊が悟りを開いたのち、最初に説法したときの第一声は、
「比丘(出家の修行者)たちよ。この世に近づいてはならぬ二つの極端がある。如来(真如から来た人という意味で、要するに仏のこと)は、この二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである。」

だそうです。では、仏とは何なのか、仏の智慧(知恵ではなくて)とは何なのか、中道とは何なのかということになるわけですが、それは特に妙法蓮華経というお経を読むとなんとなく理解はできます。(ちなみに、二つの極端とは、苦行主義と快楽主義のことで、クソ真面目でもいけないし、不真面目でもいけないと解釈されています。)

簡単にいうと、仏とは命そのものであり、仏の智慧とは、命を与えようとするはたらき、ということであり、中道とは、そのはたらきを見極めるということです。さらに命というのは、始まりもなく終わりもなく、また切れ目もなくつながっている無始無終の存在だというのです。

こうなると理論的に証明することは不可能でありますが、なんとなくそのように感じたり、信じることはできそうな気がします。

自分の命とはどこにあって、どこまでをいうのかを考えた場合、例えば髪の毛を切ったとき、切る前は自分の髪の毛だったものが、切った途端に自分のものでなくなるとはいえないことはすぐに理解できるように、自分の命すら境目を明確に定義することはできないわけです。

つまり、自分の肉体は、命という大海に浮かんでいるものと考えると、肉体がなくなっても命は無くならないと考えることもできます。

生きとし生けるあらゆるものの命は一つにつながっていて、一人ひとりの肉体は、その命の具現化であると考えれば、自分も他人も同じように尊い存在であるということに気付けると思います。

命は一つということ、またその尊さについて、さらに深く研鑽してまいりたいと思います。

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菩薩について

駅前やデパートの前などでユニセフなどの街頭募金に立っている人をよく見かけます。あるいは、神社やお寺の境内などで清掃奉仕をされている方も見かけます。また、私自身もそうした奉仕活動を何度も体験したこともありますし、奨励する思いもあります。

さて、そもそも奉仕とは何かということを考えてみたとき、まず、辞書等で調べると以下のように記載されています。

『身を削って他者のために働き尽くすこと。報酬を求めず、また他の見返りを要求することなく無私の労働を行うこと。』

たしかに尊い行為であります。その行為をしているときの意識を掘り下げてみると「人の役に立つことが好きだから、うれしいから」という意識が一つあるようです。ところが、一歩間違えると「してやっている」という意識にもなりかねません。そういう意識になると、奉仕も「やらなければならない」という意識に発展し、いろんな人に強制するようなことにもつながってしまいます。

一方、仏教には、仏の次の位として菩薩という役割の人が登場します。文殊菩薩、普賢菩薩、観世音菩薩、勢至菩薩などと呼ばれる方々がそれで、菩薩像などにも彫刻されています。菩薩というのは、まさに奉仕の精神で他者のために尽くす人でありますが、なんのためにするのかというと仏になるためであります。つまり、自分自身が仏になるための修行として他者のために尽くすのです。

ですから、菩薩の意識は、自分が尽くす行為ができるのは、その対象となる人がいるお陰であり、感謝の対象となります。「してやっている」などという気持ちは微塵もなく「させて頂いて有難うございます」となります。

無私の労働とはたいへん尊い行為でありますが、無私を超越した「させて頂いて有難うございます」という菩薩の行為はさらに尊いものといえると思います。では、なぜそこまでできるのかというと、菩薩には「私も修行次第で仏になれる!」という確信があるからです。

仏になれる自覚を強く持てるよう精進したいと思います。

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生かされ育てて頂いている

大型GWを挟んでだいぶ間が空いてしまいました。約2週間ぶりの更新です。

仏教の根本思想に、私たちの命は仏(=真理、法則)に生かされている、というものがあり、このことは何度も書かせて頂いております。「生かされている」ということはなんとなく分かったつもりになっていましたが、意外に抽象的な言葉であったことにも気付かされました。これをより具体的にいうならば「育てて頂いている」ということだ、ということを最近学ばせて頂きました。

私たちには必ず両親がいます。中には、実の両親の顔を知らないという人もいるかもしれませんが、それでも血のつながったお父さんとお母さんが一人ずついる(いた)ということは紛れも無い事実であります。両親の両親、そのまた両親とどんどんさかのぼっていった大勢の親のことを先祖というのは一般常識でありますが、さらに無限の過去までさかのぼっていったときに、最終的にたどりつくのが神仏ということです。これはあらゆる宗教の根本思想であり、万教同根(ばんきょうどうこん:全ての宗教の根っこは同じ)といわれるゆえんであり、宗教というカテゴリのみならず、科学的にも疑いようがありません。

つまり、今現在の私があるのは、一人ひとり親(育ての親も含めて)に育てられた結果であり、親はそのまた親に育てられという具合にどこまでもたどることができ、すべては命の元である神仏から育てられているということであります。(もちろん、親以外の周囲からの支えも頂いておりますが、基本的にという意味で。)

ときには優しく、ときには試練を与えられることもあります。やさしさと厳しさの両方が必要であり、一つひとつクリアしていくことが成長であるといえます。

こういう見方をすれば、現在の世界の脅威となっている新型インフルエンザは、神仏が人類に与えた試練であるとも受け取れます。もちろん、直近の具体策を講じることは重要なことであり、それもこれも人類全体が成長する糧であるともいえるわけです。間違っても、なにかの祟りだなどと考える必要は全くありません。

親は子が立派に成長してくれることを望んでおり、子から見れば立派に成長することが育てて頂いていることへの恩返しであります。

どんな問題にも冷静にかつ力強く取り組む心構え・姿勢が大事だと思います。

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一切衆生悉有仏性

大乗経典の一つ『大般涅槃経』というお経に、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」ということが説かれています。この意味は「一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏性(仏の性質)を有している。」ということです。

さて、私は長いこと「仏性を有している」という言い方について、ちょっと勘違いしていたことに気付きました。それは、あるモノの中のどこかに仏性というものが存在していると解釈し、無意識のうちに、仏性が存在していないモノがある、と思っていたのであります。

また、「衆生」とは「生きとし生けるもの」という意味ですが、これはどうやら動植物ばかりでなく、水や空気や土や石も含まれているようです。

つまり「一切衆生悉有仏性」をそのまま解釈すると「あらゆるものは仏性だ!」ということになります。

物質の究極はクォークであるとされていますが、クォークという「モノ」が存在するならば、クォークを構成する、より小さい「モノ」が存在するハズであって、現代の物理学では、現時点ではここが限界であり、クォークより小さいものは「エネルギー」としか表現しようがないのだそうです。

物質=エネルギーとは、アインシュタインの相対性理論でも述べられていることですが、あえてエネルギー=仏性と考えると、「あらゆるものは仏性だ!」と悟られたお釈迦様ってほんとにスゴい方だと思わせられます。

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ちょっと気になって・・・

法滅時代のことがちょっと気になって、いろいろ調べてみましたところ、以下のサイトを見つけました(勉強不足でした)。↓

<釈尊と仏教>

大方等大集月蔵経(大集経の中の一部)の法滅盡品という章があり、その中で、正法(正しい仏教)が消えたあと、やがてさまざまな天変地異、災害、殺戮などの人災が起きるというような、お釈迦様が予言されたとされることが記述されていますが、それはまさしく末法のことを示しています。

つまり、法滅というのは、正しい法が滅するという意味で、末法のことを示唆しているわけです。

末法とはまさに現代のことで、さまざまな天災、地災、人災をほとんど毎日ニュース等で見聞きする、今のこの世の中であります。そして、大涅槃経では、56億7000万年後に弥勒仏という方がお出になられて、新たな正法時代を迎えるとされていますが、そんな先のことを想像しても、今の私たちにはなんの意味もないことであります。

お釈迦様は、この末法の世がおとずれることを予想されて、大乗経典、特に法華経を遺されたとされています。要するに、次の正法を迎えるまでの56億7000万年間は、大乗経典に基づいて修行しなさい、というのが一つの仏教の捉え方でもあるわけです。

いろいろ勉強させていただけて有り難い思いでありますが、なにはともあれ、正しくよりよく生きるための方法を学び、実践し、そういう人を増やしていくことが世の中全体をよくしていくことであり、そのことが最優先時であることに変わりはありません。

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真理・法則は永久不滅

<レムナント出版(キリスト教書籍・雑誌)>というサイトを見つけ、興味深く読ませて頂きました。キリスト教も素晴らしい教えであると思っておりますが、この中で大変な間違いを一つ見つけましたので指摘させて頂きます。以下のページです↓

<仏教の「末法」キリスト教の「終末」>

この中で、末法時代が10,000年続いたあと、法滅時代(仏教の教えそのものが無くなる)がやってくるという記述があり、従って、仏教では救われないというニュアンスの導入になっています。

仏教の根本的な教えは「諸行無常(全てのものは変化する)」と「諸法無我(全てのものは関係しあっている)」という宇宙の真理・法則であり、この真理を有効活用しましょう、というものです。

法則でありますから、三角形の内角の和は180度である、ということと同様に、永久に無くなるものではありません。

変化することが真理でありますから、真理に基いた教義が、時代と共に変わっていったり、薄れていったりすることは当然のことであり、そのことを法滅時代と表現したのではないかと想像しますが、字面通り「法」が「滅」すると解釈すると、それはとんでもない間違いになります。正法時代、像法時代、末法時代は経典にも記載されている思想ですが、そもそも法滅時代という言葉はどこから出てきたのでしょうか?
(ちなみに、今現在は、仏教では末法時代とされています。この末法時代がくることをお釈迦様は予想されて、のちに活字になる教え・経典を遺したとされています。)

それと、以下のページにも疑問があります↓

<仏教の「修行」キリスト教の「贖い」>

仏教では、仏になるために1兆×10の61乗年修行しなければならない、と記述されていますが、たしかに、経典にはそのような意味に相当する記述があります。これは誤解されやすいところなのですが、大事なのは、それだけの長期間、修行しようという気持ちが起きるのは「自分は仏の子なんだ!自分も仏になれる!」と喜び、確信できるからであり、確信した人は既に「仏」であるわけです。つまり、仏が仏になる修行をするのですから当たり前のことです。

犬や猫の子が人間になろうと努力してもなれるわけはなく、そんな努力をしようとすら考えもしないでしょうし、仮にそんな努力をさせられようとしたならば、それはそれはとてつもない苦痛が伴うのではないでしょうか。

「信じるものは救われる」とはキリスト教に代表される、主に西洋の一神教の思想ですが、逆にいえば「信じないものは救われない」ということです。ですが仏教が説くところは、あらゆるものは真理に生かされているので、信じようが信じまいがすでに救われており、そのことに気付けばよいのだよと、ただそれだけのことなのです。

宗教とは、人間として正しい生き方・よりよい生き方を教えるものでありますから、ぶっちゃけ、どんな宗教でも、正しい宗教ならばなんでもいいよ、ということまで仏教では説いています。正しい生き方・よりよい生き方を求め、人にもお奨めできるよう学んでまいりたいと思います。

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先見力を養うには

今日もイイ話を聞いたのでメモしておきます。

「窮すれば通ず」ということわざがあります。これは「行き詰まってどうにもならなくなったときにこそ、ふと打開策が見つかる。」という意味です。

実例として、ニュートンは木からリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見したそうですが、まさに、「窮して道が開けた」出来事だったという解説を聞いたことがあります。ニュートンは、太陽を回る惑星がどうして太陽から離れていかずに回っていられるのかをずーーっと考えていたところに、リンゴがポトッと地面に落ちるのを見てハッと気づいた、というんです。つまり、何も考えずボーっとしていたのではハッと気づけるということはなく、継続して努力することが大事であるという教訓とも受け取れます。

ところで、この「窮すれば通ず」ということわざ、これは儒教の中の五経の一つ、易経に記されている「窮すれば則ち変ず、変ずれば則ち通ず、通ずれば則ち久し」が元になっているのだそうです。これは「窮→変→通→窮→変→通→・・・という繰り返しが永久に続いていく。」ということだそうです。

こういうことは、日常生活の中で誰しも経験していることではないでしょうか。うまくいってるなーと思ってもいずれ行き詰まり、そこでどうにか打開できたり、問題解決できたりして再びうまくいって軌道に乗りますが、いずれまた行き詰まる、といったような。これはいわば、人生そのもののことをいっているとも受け取れます。

仏教でも、無量義経の説法品というお経に「生住異滅」ということが説かれていますが、これは、なにか物事が生じると(生)、ある期間その状態が保たれますが(住)、そのうち状況が変化し(異)、やがて消滅していき(滅)、再び生じ(生)、このことを永遠に繰り返す、ということで、このお経の解説には、これが宇宙の真理・法則であると説かれています。

どんなにうまくいっていても、逆にどん底の状態であったとしても、その状態が永久に続くことはないと悟り、有頂天になったり、落胆したりということをほどほどにすることが、次の変化を冷静に読むことができるようになる=先見力を養う秘訣であるように思います。

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人にモノを伝える心構え

「自ら信じて、人をして信ぜしむ」という言葉があります。「まず自分が信じてから、人に対して、信じられることを勧める。」という意味になりましょう。この言葉の出どころを調べましたら、中国の唐の時代、浄土教の高祖として活躍された善導大師(613~681)の『往生礼讃』という書の中にある「自信教人信 難中轉更難大悲傳普化 眞成報佛恩」の一句だそうであります。

この一句を訳すと「自ら信じ、人をして信ぜしめることは、難しい中さらに難しいことである。大悲(仏の教え)を伝えて普く教化することが、真に仏恩に報ずることである」となります。

さて、「自ら信じて、人をして信ぜしむ」という理屈が絶対であるとすると、自分が信じられないものは、いつまで経っても人に信じさせることはできない、ということになりますが、これが普く成り立つとは言い切れないと思います。自分自身はあまり理解していなくても、教えてもらったことをそのまま伝えて、伝えられたことを即理解できる素養を備えている人もいるからです。

無量義経の十功徳品というお経の中にこんな一節があります。
「いまだ自ら度せずといえども、しかもよく他を度せん」
意味は、
「いまだに自分は救われていないとしても、人を救うことができる」
ということです。

伝えようとする内容が正しく、本物であるならば、伝える本人が仮によく分かっていないとしても、伝えられた側はよく理解できる、ということになります。

もちろん、伝えられる側にもある程度の資質があることが必要条件になりますが、いずれにしても、自分は理解できないから黙っておこうとは思わなくてもよさそうです。

まぁしかし、「自ら信じて、人をして信ぜしむ」ことに越したことはないわけで、仏教に限らず、あらゆる教育等々にも通ずる教訓であると感じます。

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第三の本能

残念ながら、羽生四冠が負けてしまいました。羽生ファンとしては「歴史に残るまさかの四連敗」ですが、渡辺竜王ファンは飛び上がって喜んでおられることでしょう。渡辺竜王、そしてファンの皆様、ほんとにおめでとう!しかし、なんで?というのがホンネ。渡辺竜王の執念が優ったということでしょうか?思えば、永世名人を森内九段に先に譲っていることもあり、羽生四冠はキホンテキにお人よし(?)なんですかね。そんなお人よしな人、私は好きです。羽生四冠の永世七冠は、来期以降のお楽しみということで。

先に譲るということで最近タイムリーにいい話を聞いたのでメモっておきます。人間、いや生きとし生けるものすべてに本能があるということは、誰も疑わないと思います。いわゆる三大欲求といわれる①食欲、②性欲、③睡眠欲がそれです。

これを詳しく分析すると、食欲と睡眠欲は、生きることそのものに対する最も基本的な本能であり、性欲は、種族を残したいという本能ということに分類できます。そして、この生に対する本能を第一、種族保存の本能を第二とすると、人間にはさらに第三の本能があるというのです。

それは、人に貢献したいと思う本能、ということです。人に喜んでもらったら嬉しい気持ちになるということは、誰しも経験していることでしょう。この第三の本能のことを広義的に、仏教では仏性(ぶっしょう)、キリスト教では神性(しんせい)と表現していると考えられます。

むずかしく言ったらキリがありませんが、要するに、本能ですから誰にでも備わっていて、かつ必要不可欠なものであり、本能を失ったら死ぬしかないわけです。昨今の殺人や自殺などの事件を見聞きすると、この第三の本能を失った結末なのではないかとも感じられます。

自分の内側をよく探り、第三の本能である仏性や神性を顕現できるような生き方を追及してみたいと思います。

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仏教には業(ごう)という思想があります。いや、仏教あるいは宗教に限らず、一般常識かもしれません。業とは、他にカルマといったりしますが、この業とかカルマの意味は「ある行為による結果と影響であり、その結果と影響によって蓄積される心」であります。もっと簡単にいえば、たんに「行為」といえます。

行為とは、無意識もしくは無条件に行う行動(尿意をもよおしたのでトイレに行く、電話が鳴ったので電話のところまで行く、等)ではなく、自分の意思で、頭で考えて行動することを指します。さらに言えば、実際に行動に移さなくとも、頭で考えることだけでも行為のうちに入ります。

つまり、今現在の自分があるのは、過去に無数の行為を行った結果である、というのが業の思想です。よく「あの人は業が深い」などというように、業という言葉自体がよくない意味で使われることが多いですが、その場合は、正しくは「悪業」ということです。逆に言えば「善業」という考え方もあるわけです。

いままでの自分の行為をなおざりにせず、積極的に省み、よかった所を伸ばそう、悪かった所を改めようという気持ちで「善業」を積むことを心がけることが大事なことであり、そういうことを説いているのが業の思想です。

1日に1回でも、自分の行為をじっくり省みる時間を持つことを実践していきたいと思います。

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がんばろう!○○



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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2013年12月より札幌在住。
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