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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   
カテゴリー「仏教」の記事一覧

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全ては仏さまのもの

またもや多忙モードですが、合い間をぬって久しぶりの更新です;;

先日、宗教評論家の「ひろさちや」さんの著書を読んでいて、なるほどなーと思ったので私なりに噛み砕いてご紹介します。

まだ小さい二人兄弟のお兄ちゃんが、ある日お母さんと親戚の家に遊びにいきました。親戚のおばさんは、帰りがけ、お兄ちゃんにショートケーキを一つくれました。帰り道、お母さんはお兄ちゃんになんて言ってあげたらよいと思いますか?

1.(弟の)ヒロくんにも分けてあげようね。
2.(弟の)ヒロくんにバレないように食べちゃいなさい。
3.(弟の)ヒロくんとケンカになっちゃうといけないからママが預かるわね。

どうでしょうか?どれも有り得る答えですが、実は、1~3のどれもあまりいい答えではないようです。

1は、「ボクは弟に分けてやったんだ。」という優越感を増長させ、弟より立場が上であることを固定化させるような意識を植え付けてしまうことにもなりかねません。

2は、「これからもバレさえしなければ何をやってもよいのだ」という意識をもってしまう恐れがあります。

3は、「自分がもらったものなのに、なぜ母親にとられなければならないのか」と、親を恨む気持ちを起こさせてしまうことになりそうです。

現実は、たいてい1の答えになりそうですが、これはもちろん正解があるわけではありません。ただ、最もよいと思われる答えが他にあります。

それは、「まずは仏さまにお供えしようね。」ということです。仏さまに供えることによって、所有権はお兄ちゃんから仏さまに移ります。仏教的にいえば、どんなものであろうとも、全て仏さまのものであるのですが、供えるという行為によって、それが子どもにも明確に理解できます。

その後、兄弟で分けたとしたなら、それはお兄ちゃんが弟に分けたのではなく、仏さまが二人に分けてくれたものである、ということになります。

小さい頃から、このようなことを親が子どもに伝え、情操心を養うことはとても大事なことのように思います。

子どもがもらったお菓子にとどまらず、よそからもらったお土産や、父親が稼いだ給料の明細書でさえも、まずは仏さまにお供えし、そうしてから大事に使わせて頂くという行為は、心を豊かにするものだと思います。

「全ては仏さまのもの」という心を大事にしたいですね。

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宗教(信仰)の奨め

興味深いサイトを見つけました↓

MIYAGAWA

このサイトの、「危ない宗教の見分け方」というページをご覧になってみてください。なかなか共感できることをおっしゃっておられます。

さて、一口に宗教というと、残念ながらどうしてもマイナスイメージが先行してしまうのが通常ではないでしょうか?それはやはり、12年前に地下鉄サリン事件を起こした某カルト(カルトと断言していいでしょう)団体や、最近では強引な勧誘をしたとして逮捕者を出した、こちらもカルトっぽい某団体などが、宗教に対するマイナスイメージを作っている典型といえそうです。

しかし、本来、宗教とは、読んで字のごとく「宗(むね)の教え」ということから、正しい生き方の根本を教えるものであるので、当然必要なものであるはずです。世界三大宗教といわれるキリスト教、仏教、イスラームは、それこそ2000年以上もその教義が継承され、世界中に広まっている事実は、必要なものであることの最も解りやすい証明といえるのではないでしょか。

現在、日本だけでみても、宗教法人は、なんと22万(!)を超える団体が存在するそうです。たいていの団体は、さまざまなボランティア活動などを通じ、社会に溶け込んで世のため人のため自身の向上のために行動されていて、社会やメディアに叩かれるようなことをしてしまう団体はほんの一握りであると思いたいです。

さらに、日本という国は、元旦には神社に初詣をし、4月8日にはお釈迦さまの誕生日を、12月25日にはイエス・キリストの誕生日をお祝いし、結婚式は教会で、葬式はお寺でというように、ほとんどの宗教をTPOで受け入れ、使い分けることができる、きわめて珍しい、おおらかな人種であると聞いたことがあります。

つまり、特定の宗教団体に属していなくとも、宗教心(信仰心)は意外に篤いものを持っているということがいえそうです。

信仰心は尊いものだと思います。その心をより高く、深く育てることができるならば、そして、そういう人が増えるならば、明るく温かく住みよい社会ができると思います。そのためにはやはり、なんらかの団体に属し、儀式や行事やボランティアに参加することが大事なことではないでしょうか?

檀那寺に属していたらそこの宗旨を、神道、クリスチャンなら、それぞれの教義に興味をもって、週に1回でも月に1回でも学んでみられることをお奨めします。損はしないと思いますよ。

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皆いずれ必ず死ぬということ

雑阿含経(ぞうあごんきょう)というお経に、四馬(しめ)のたとえという次のようなお話があります。

「第一の最高の名馬は、ムチの影を見ただけで走り出す。第二のいい馬は、ムチで打たれて走り出す。第三の普通の馬は、ムチで打たれ、皮が破れ血が出てはじめて走り出す。第四の駄馬は、ムチで何度も打たれ、皮も肉も破れ、骨に達して(骨身に沁みて)はじめて走り出す。」

このお話は割りと有名だと思います。名馬はムチの影を見ただけで走り出す・・・なるほど、と思われそうですが、これはたとえ話なので、もちろんこれで終わりなわけではありません。

人が、人の死目(しめ)を縁として、いつ正しい生き方に目覚めるか、ということに置き換えられます。

第一の人はアカの他人の死を縁として目覚め、第二の人は友人知人の死を縁として目覚め、第三の人は身内の死を縁として目覚め、第四の人は自分自身が死ぬ間際になってはじめて目覚める、というのです。

魂は永遠という概念はありますが、肉体は限りがあり、必ず誰しも死が訪れます。限りがあるからこそ、大事に、有意義に生きなければならないし、そのことにほんとうに目覚めることができたなら、自分の命も他人の命も等しく尊重する心も生まれてくるのではないでしょうか。

誰しも「死に向かって精一杯生きている」ということをよくよく認識する必要があると思います。

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生命の尊さ・重さ

年明け早々から、連日のように殺人事件が報道されている。それも、親が子を殺すとか、子が親を殺すとか、兄弟姉妹を殺すとか、最も身近な人を殺めるという目も耳もふさぎたくなるような痛ましい事件である。

近年、よく「キレる」ということが取り沙汰され、自分を見失って他人を傷付けたり、殺めてしまったりということが起きているが、ただ単にキレたからといって、その都度傷つけられたりしていてはたまったものではない。そういう意味では、耐え忍ぶという心も薄れているようにも思われる。

しかし、少々キレるようなことがあったからといって、普通の感覚で「殺す」という行為にまで及ぶものだろうか。ましてや、自分の一番身近な肉親を殺めてしまうような感情というのは、もっと根本的な、大事な意識が欠落していることが原因になっているように推察する。(逆に、身近であるがゆえの甘えという状況も多分に起こり得ることかもしれないが・・・)

それはつまり、生命の尊さ・重さということである。

仏教が教えるところでは、生命とは宇宙意識そのものだということである。その宇宙意識の働きとは、新たな生命を生み、育てたいという意識のみであり、憎しみによって他の生命を絶とうなどという意識はこれっぽっちもないのである。

生命の尊さ・重さは、当たり前のように誰もが知識として知っていることかもしれないが、たんなる知識としてだけでなく、仏教でいう智慧(知恵ではない)となって体解することが大事なことである。自分の命も、他人の命も、全く同じ命であって、同じように尊く、重いものだということをしっかり認識する必要がある。

そのためには、やはり毎日毎日繰り返し、生命の尊さ・重さに思いを馳せ、生かされている命に感謝するひとときを持つことが大事なことであるし、他を生かそうとする思いやりの行動を、ほんの少しでもいいので繰り返し実行することが大事なことである、と仏教では教えている。

特に、感謝するひとときを持つことの具体的な実践方法としては、神仏に手を合わせ、頭を垂れ、生かされている命に感謝する、ということである。これは、各家の宗教や宗派に関わらず、仏壇があろうがなかろうがいつでもどこでも実行できる。

無宗教だという人ならば、親でも学校の先生でも会社の社長でも総理大臣でも、あるいはタレントだろうが気の合う友人だろうが隣のおじさんだろうが誰でもよい、この人のお陰で今の自分があるのだ、と思える人が一人ぐらいはいるものである。そういう人を心に浮かべて、感謝の思いを起こし、その思いを自分自身が意識するということが大事なのである。

一人一人がそんな思いで、生命の尊さ・重さに感謝ができるような世の中になるならば、凶悪な事件などはすぐさま消滅するのではなかろうか。また、そんな祈りを捧げつつ、日々生活できるようになりたいものである。

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生かされるとは?

年賀状も書き終わり、公私ともようやく年を越せる準備も整ったところで久しぶりの更新です(^^;

今日もイイ話を聞いたのでメモっておきます。

「大事なものほど無料(タダ)である」という。大事なものの最も代表的なものとして、太陽の光、空気、水がある。もっとも、国や地域によっては、水は有料のところもあるが、雨水、川の水、海の水は万人に平等に存在する。

太陽の光も、空気も、水も、あまりにも身近すぎて、いちいちそれらを意識して生きているわけではないのだが、当然のことながら、これらの1つが無くなっただけで生きていることはできなくなる。

仏教では、あらゆるものは孤立して生きているのではなく、あらゆる存在によって生かされているのだと説いているということは、前にも書かせて頂いた。

例えば、自分の心臓一つとってみても、自分の意思で動かしているわけでないことを考えただけで、生かされているという意味はすぐに理解できることである。

では、なぜ生かされているのか?

これも仏教では、必要があって、役目があって全てによって生かされているのだと説いている。

そしたら、どう生きなければならないのか?

これはもう明白なことで、仏教でも説かれていることであるが、自分を生かしている全てに対する恩に報いるために生きなければならないし、生命とはそういうものである。

家庭においても、地域においても、会社においても、全ての(生命)活動は、回りをよくしよう、回りの恩に報いようという、個々の生命に刻み込まれている本能ともいえるものであるようだ。

何かに行き詰ったり、悩み苦しんだりする原因は、極論をいうと個人的な損得のみに捉われ、回りの恩を忘れていることにある場合が多い。

年がら年中、回りの恩に感謝することなどはムズカシイことだが、せめて1日1回ぐらいは、心を静めて生かされている恩に感謝するひとときを持ちたいものである。

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真理について

12月8日は、お釈迦さまが悟りを開いた日である。

この日は、仏教徒にとってはもちろん、全人類にとっても非常に意義深い、記念すべき日であるといわれている。

それはなぜか。

お釈迦さまは、紀元前560年頃の4月8日に生まれ、それはもちろんおめでたい日ではあるが、それ以上に、お釈迦さまが悟りを開いてくださったおかげで仏教が成立し、宗教のみならず、あらゆる思想や哲学にも絶大な影響を与えたのだといわれているからである。

さて、その悟りを開くとはどういうことかというと、真理を明確化されたということである。

では、真理とは何か。

辞書には「正しい道理。だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実。不変の-」と示されているとおり、時間的には無限の過去から無限の未来まで、絶対に変わることなく、空間的には、全宇宙のどこに行こうともあてはまる法則ということであり、それは次の二つであると説かれる。

 諸行無常 : 諸々の事柄は常で無い(つまり、変化するということ)

 諸法無我 : 諸々の事象には我(孤立)は無い(つまり、関係するということ)

この変化と関係ということこそ、だれも否定することができない、普遍の法則であるというわけである。

変化ということでは、人間の身体一つとってみても、一瞬一瞬に数億個もの細胞が死滅し、新しく生成されているという。

関係ということでは、みそ汁一杯をとってみても、みその素となる大豆や具のワカメがどこかで採れ、大勢の人の手から手に渡ってこのお椀に辿り着いていることを思えば、即座に納得のできることである。

この変化と関係の法則を最大限に活用することによって、不安の無い人生を築くことができると説かれたのが仏教の一要素である。

お釈迦さまが悟りを開いた今月を迎え、仏教の原点を見つめ、お釈迦さまの偉大さ有り難さに思いを馳せたいと思う。

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自分を励ますことば

自分で自分を励ますことばをご紹介。
(以前読んだ、自己啓発関係の本に書かれてあったことばをメモっておいたものです。)

物事を達成できる人間とは、まさに私のような人間のことを指します。
私は、真の意味での勝者なのです。
私は、自らゴールを設定し、必ずそこにたどりつきます。
私にとって成功を収めることは、人生のあり方そのものに他なりません。
私の中には、文句のつけようがない精神と、不滅の意思と決意が宿っています。
何者も私の中にある偉大な才能の活動を止めたり、私の夢が放っている光を
弱めたりはできないことを、私は知っています。


どうでしょう。なんとなくやる気や勇気や生きる希望が湧いてきませんか?
ほんとうの仏教は、まさにこういうことを説いているんです。ほんとうの尊い自分(=仏性を備えているということ)に必ず気付けますヨ、ということをです。

くじけそうになったときは特に、自分は尊い存在なんだということに思いを馳せて頂きたいと思います。

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救われるとは?(2)

以前(9/10)、「救われるとは?」ということについて書かせて頂いたが、今日、「救われる」ことの意味について、さらに深く学ぶことができたので追記させて頂く。

以前書かせて頂いたことを簡単におさらいすると、本当の意味で「救われる」というのは、悩み苦しみが解決することにとどまらず、仏性といわれる、人間が本来具えている神仏と同じ性質に気付くことである、ということだった。

以上の説明だけだと、仏性以外の欲の心や、その欲に捉われる心、イコール煩悩というのは、いわゆる悪心であり取り除くべきものである、という解釈も成り立つことになる。事実、さまざまな宗派や出家を旨とする仏教などでは、「煩悩を滅せよ」ということを説かれている。

しかし、この「煩悩を滅する」という表現はあまり正しくなく、より正しくいうならば、「煩悩を超越せよ」ということになるようだ。

つまり、煩悩そのものも決して悪いものではなく、煩悩のお陰でより高い、より深い境地に進むことができるのだという見方をすれば、煩悩も貴重なものであるということができる。

あえて逆説的にいうと、仏性に気付くためには、煩悩も必要なものであるということになる。

仏性に気付くことのみを救われとするのではなく、煩悩によって悩み苦しみながら生きているのであっても、それはすでに救われの中で生きている、ということになる。

例えば、病気や借金や人間関係で苦しんでいるとするならば、その病気や借金や人間関係すらも、生きる糧となっているわけであり、結局、生きている、いや、生かされているということそのものが有り難いことであり、救われなのである、ということである。生命そのものが尊く有り難いということであり、心底そのように実感できることこそが救われるということである。

どうも達観した解釈のようだが、「救われる」ということを突き詰めていくと、ここがギリギリの到達点のようだ。

日々生活をしていると、条件反射的に不平・不満・愚痴を口に出してしまいがちになるが、一歩踏みとどまって「これも私の尊い生命活動の一つの表れなのだ」と思える余裕を持ちたいものである。

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出会いを大事に

「一秒の言葉」という詩をご紹介します。

一秒の言葉

「はじめまして」
  この一秒ほどの短い言葉に一生のときめきを感じることがある
「ありがとう」
  この一秒ほどの短い言葉に人のやさしさを知ることがある
「がんばって」
  この一秒ほどの短い言葉で勇気がよみがえってくることがある
「おめでとう」
  この一秒ほどの短い言葉で幸せにあふれることがある
「ごめんなさい」
  この1秒ほどの短い言葉に人の弱さを見ることがある
「さようなら」
  この一秒ほどの短い言葉が一生の別れになるときがある
一秒に喜び、一秒に泣く
一生懸命、一秒


これは、相田みつを座談会で、生島ヒロシさんが講演されたときに紹介されていた詩ですが、どなたが作られたものかは不明です。

一期一会という言葉もありますが、ある一つの出会いが、それで最後かもしれないから、心を込めて、一つ一つの出会いを大事にしようということですね。

一口に出会いといっても、初めて会う人との出会いはもちろん、毎日顔を合わせている家族や職場の同僚でも、昨日と今日では微妙に違っていると思います。

その微妙な違いに気付かないために、「こんな人だと思わなかった」というようなことが起こるわけです。では、なぜその微妙な違いに気付けないのかといえば、相手が悪いわけではなく、相手を固定的に見ている自分に非があるのだと思うと、事態が改善されることが多いように感じます。

出会いを大事にするというのは、相手を固定的に見ず、「この人は、私を成長させてくださる師匠なのだ」という見方をする、というのが一つのコツのようです。

ついつい自分の主張が受け入れられないと不満に思ってしまいがちですが、相手の立場を尊重するということにも気を配ることができるよう、心がけたいものです。

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忘己利他

多忙モードも小康を得まして、何日かぶりの更新です(^^;

竜王戦第3局(第19期竜王戦中継サイトをご参考)は、私が応援する渡辺竜王がようやく1勝を挙げました。ここからさらに盛り返してもらいたいです。

さて、「忙」という字も「忘」という字も、「心」を「亡くす」という字で組み立てられているように、あまりよくない意味で自分自身を見失っているという意味が込められているように思います。

そういう意味では、「忙しい」という言葉はできるだけ使わないように意識しているつもりですが、ついつい口に出てしまいます。

ところで、伝教大師「最澄」の言葉に「忘己利他(もうこりた、もしくは、ぼうきりた)」というのがあります。「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」というのが元の言葉ですが、つまり、仏のような慈悲の行いというものは、自分の損得勘定は一切含まれないということを言い換えたものです。

例えば、子を持つ親ならほとんどの人は経験があることだと思いますが、生まれて間もない我が子がおなかを空かせて泣いていたら、母親は無条件に授乳する、ようやくつかまり立ちができるようになった程度の子が、もし転んだりしたら、無条件に手を差し伸べる、というときに、「自分の労力が損なわれるが仕方がなかろう」などと思って授乳したり手を差し伸べたりする人は一人もいないと思います。

この、我が子に対するような心境が、あらゆる人に対して全く同様の心境で行動されたのがお釈迦さまであり、それが仏心なのだというわけです。

妙法蓮華経というお経の譬諭品という章に、「今この三界(宇宙全体)は皆これ我が有(所有するところ)なり。その中の衆生は、ことごとくこれ我が子なり」という一節があります。

この一文を読むだけでも、仏さまの心というのは、広大無辺な慈悲の心で100%埋められているということが理解できます。仏さまの心を、ほんの少しでもマネができたとしたら、たいへん尊いことではないでしょうか。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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