以前(9/10)、「救われるとは?」ということについて書かせて頂いたが、今日、「救われる」ことの意味について、さらに深く学ぶことができたので追記させて頂く。
以前書かせて頂いたことを簡単におさらいすると、本当の意味で「救われる」というのは、悩み苦しみが解決することにとどまらず、仏性といわれる、人間が本来具えている神仏と同じ性質に気付くことである、ということだった。
以上の説明だけだと、仏性以外の欲の心や、その欲に捉われる心、イコール煩悩というのは、いわゆる悪心であり取り除くべきものである、という解釈も成り立つことになる。事実、さまざまな宗派や出家を旨とする仏教などでは、「煩悩を滅せよ」ということを説かれている。
しかし、この「煩悩を滅する」という表現はあまり正しくなく、より正しくいうならば、「煩悩を超越せよ」ということになるようだ。
つまり、煩悩そのものも決して悪いものではなく、煩悩のお陰でより高い、より深い境地に進むことができるのだという見方をすれば、煩悩も貴重なものであるということができる。
あえて逆説的にいうと、仏性に気付くためには、煩悩も必要なものであるということになる。
仏性に気付くことのみを救われとするのではなく、煩悩によって悩み苦しみながら生きているのであっても、それはすでに救われの中で生きている、ということになる。
例えば、病気や借金や人間関係で苦しんでいるとするならば、その病気や借金や人間関係すらも、生きる糧となっているわけであり、結局、生きている、いや、生かされているということそのものが有り難いことであり、救われなのである、ということである。生命そのものが尊く有り難いということであり、心底そのように実感できることこそが救われるということである。
どうも達観した解釈のようだが、「救われる」ということを突き詰めていくと、ここがギリギリの到達点のようだ。
日々生活をしていると、条件反射的に不平・不満・愚痴を口に出してしまいがちになるが、一歩踏みとどまって「これも私の尊い生命活動の一つの表れなのだ」と思える余裕を持ちたいものである。
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