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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

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カテゴリー「仏教」の記事一覧

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祟りについて(先祖供養の補足)

先祖供養についての考察および解説(学ばせて頂いたことのご紹介)は、ひとまず完結させたと思っていたが、あちこちのサイトを巡っていると「先祖の祟り」などという言葉がちょくちょく目につき、なおざりにできないと思ったので補足したい。

まず、祟るという意味を辞書で調べると次のように載っている。

(1)神仏・怨霊・物の怪(け)などが災いをする。
「悪霊が―・る」「ふりにし恋の神さびて―・るに/古今(雑体)」
(2)ある行為が原因となって悪い結果をもたらす。
「無理が―・って病む」

上記の説明は、全て正しいとはいえない感じがする。

結論からいうと、神仏が祟るとか、ましてや先祖が祟るなどということはありえないと考えたほうがよい。

たいていのまともな親ならば、我が子には幸せになってほしいと願うばかりで、不幸になってほしいなどとは思わないだろう。しかしながら、昨今は、親が子を殺すなどという痛ましいニュースを耳にすることも少なからず起きてしまっている世の中であるが、それでも、そのような行為に及んだ親は、激しい後悔の念にさいなまれながら一生を終えるはずである。

そうなれば益々、遺された子孫の繁栄を願いこそすれ、祟るなどということはありえないと考えたほうが自然なのである。

仮に、自分の先祖に、そのような不幸な行為を犯してしまった先祖がいることがわかっているなら、その先祖を反面教師とし、他に幸せを及ぼすことができるような人生を歩もうと決意し生きていくことが、そのような先祖にはなによりの供養になるであろう。

さて、では祟るとはどういうことか?何が祟るのか?

いろいろ学ばせて頂く中で得られた結論の一つとして、祟りの元となる何者かのことを怨霊などと表現されるが、結局、その怨霊を呼び込むのはおのれの生き方の心構えとしての不摂生・不養生が原因である、ということである。

怨霊を呼び込むような心とは、自分さえよければ他人はどうなっても知る由もないというような自己中心の心、他人の不幸を願い、他人の幸せを妬み、怨む心である。

怨霊などというものの存在は肯定も否定もできないが、一種のウイルスのようなものと例えると判りやすいと思う。

風邪のウイルスは、空気中にたくさん漂っているが、健康を保っている肉体には、感染しても発病することはないのと同様に、健康な精神には、怨霊などという得体のしれないものが入り込む隙はないのである。

健康な精神とは結局、先祖供養その3でまとめたように、感謝の念で先祖供養ができ、命の尊さに目覚め、先祖供養を他人にも勧め、未来の幸せをも願うような心である。

そしてさらに、そのような健康な精神は、元々誰にでも備わっているのだとお釈迦さまは説かれており、それを仏性(ぶっしょう)というが、その仏性に目覚めようというのがお釈迦さまの教えである。

身体の健康には誰でも関心があると思われるが、心の健康にも目を向けて生きることがより大事なことなのである。

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先祖供養3

先祖供養について、今回はいよいよ最終回にしたい。

これまでのところをもう一度おさらいすると、

1.自分の先祖は、ある程度までさかのぼると他人の先祖でもある。

2.供養とは、感謝の念で先祖のためになにか供えるということと同時に、自分自身の資質を養う行為である。

ということを明らかにした。

さて、では感謝の念というのはどういうことか。何に対して感謝の念を抱くのかということになるが、これは、私自身が生まれてきたこと、私に生命を与えて頂けたことに対する感謝にほかならない。

私に生命を与えてくれたのは、直接的には両親であり、そのまた両親であり、つまるところは私の先祖ということになる。

従って、もし「生まれてこなければよかった」というように、私の生命に感謝できないということは、私の両親を否定し、私の先祖を否定し、他人の先祖をも否定することになる。これは、他人をも否定することにつながるわけである。つまり、自分を否定・卑下するということは、あらゆる存在を否定・卑下することと同じ行為になってしまうのである。

こう考えると、自分を否定し、苦しんでいる人には、先祖供養という行為は成立しない、できっこないのである。本当の意味での先祖供養とは、自分の命に感謝できる人のみが為し得ることになるわけだが、悲観することはない。

順序が逆になるが、初めは形の上でも「まずは先祖に感謝してみよう。感謝するような行動をしてみよう」と思って、そのような行為を少しずつでもつづけていけば、その結果、自分の命にも感謝できるようになる。

そうなれば、おのずと他人の命の尊さも知ることができ、生まれてきた子どもの命の尊さも実感することができるのである。

命の尊さに目覚める・・・これが先祖供養を行う一つの目的・結論である。命の尊さに目覚めることと、先祖供養を行うことは互いに循環し、スパイラルアップするものである。

さらに、命の尊さに目覚めた人は、より多くの人に目覚めて欲しいという新しい使命感が生じ、先祖供養の尊い意義・大切さをまだ知らない他人にも伝えたくなる。

また、自分自身がもし死んでも、多くの人が命の尊さに目覚める世の中になって欲しいと願い、またそのような心が培われるような境遇に生まれてきたいと思えるようになる。これはつまり、未来供養ということである。

以上をまとめると次のようになる。

1.自分の先祖は、ある程度までさかのぼると他人の先祖でもある。

2.供養とは、感謝の念で先祖のためになにか供えるということと同時に、自分自身の資質を養う行為である。

3.先祖供養とは、あらゆる命の尊さに目覚める行為である。

4.先祖供養を広く推奨したくなる。

5.先祖供養とは、自分が死んだあとの未来を供養する行為でもある。

そして、先祖供養の方法であるが、以上の意義が踏まえられれば、やり方というのはどのような方法でもよいのであって、目安として、各宗派での儀式やらお墓の建て方やらがあるわけであり、ご自分の家の菩提寺でも神道でもキリスト教でも、それぞれにおいて整えられている方法に則り、執り行えばよい。

仏教的な先祖供養の意義ということに重点をおき、3回に渡って書き綴ってみたがいかがでしたしょうか。

命の尊さに目覚める行為という点では、その方法は何も先祖供養に限ったことではない。命の尊さに目覚める本来の仏教的な行為・方法について、またいろいろと研鑽し、ご報告・ご紹介していきたいと思っています。

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先祖供養2

先祖供養その2。

前回は、自分の先祖が何代前で何人になるかという観点から、結局、自分の先祖を供養するということは、他人の先祖も供養しているという現実に迫った。

さて、テレビ番組などでは、正しい供養の仕方ということがいろいろ紹介されたりするが、その前に「供養」とはそもそもどういうことなのかということを吟味したい。

#・・・今回もキチンとまとめきれないカンジなので、その3までひっぱります(^^;

供養の供は、元々「供給」の供である。一般には「きょうきゅう」と読むが、仏教では「くきゅう」と読む。意味あいとしては、さまざまな品物を供える、与える、提供するということで、一般的な「きょうきゅう」と似ているが、動機が異なる。

「きょうきゅう」というのは、いわばビジネスとして使命的、義務的に行なうものであるのに対して、「くきゅう」は、供えたい、与えたい、提供したいというやむにやまれぬ心境から生じる、つまり、感謝の念から出てくる自然な行為である。

また、供養の養は、「資養(しよう)」の養であり、この資養も仏教の言葉で、「(自分の)資質を養う」という意味がある。

つまり、供養とは、感謝の念を元とし、品物などを与えたいという心に加え、そのことにより、自分自身の資質を養う行為、ということになるのである。

したがって、先祖の供養というのは、あらゆる人の先祖に感謝し、自分の心と他人の心を同時に養うこと、ということができる。

これで結論付けられたように思われるかもしれないが、まだまだ! ようやく先祖供養の意義の半分が明らかになったに過ぎない。

次回、残りの半分について明確化させて頂こう。

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先祖供養1

今日は先祖供養について考察してみたい。

#・・・途中まで書いていたら、かなり長くなりそうなことに気付きました。
#2回に分けて書きたいと思います(^^;

細木数子さんの番組などでも先祖供養について触れられることがあり、私も興味をもってよく見させて頂いている。なるほどなーと思わせられることもあるが、仏教的には、もっと深い、尊い意義があるように思われる。

さて、前提として、自分の先祖は何代さかのぼると何人になるかということを考えてみよう。

これは単純計算で求めることができる。たとえば、10代さかのぼった場合、1代、2代、3代・・・9代目の先祖と10代目の先祖の数の総和を求めればいいわけだが、計算するとざっと2,046人になる。同様に20代さかのぼった場合は、2,097,150人となり、30代さかのぼった場合は、なんと20億人を超えてしまう。

30代前の先祖というのは何年前ぐらいになるかというと、1代で平均30年と考えた場合、およそ900年前になる。900年前というと、西暦1100年頃ということになるが、この年代は、日本でいうと平安時代の終わり頃、源氏や平氏が力を付けつつある時代である。

さて、ここでヘンなことに気付かれたであろう。

西暦1100年頃、平安時代の終わり頃といったら、日本の人口は一千万人にも満たず、世界の人口ですら3億人程度だそうである。それなのに、現代の人、一人一人に対して、30代さかのぼるとそれぞれ20億人以上の先祖がいらっしゃるという計算になるのだ。

これはつまり何を意味しているのかといえば、先祖をどんどんたどっていくと、現代では全くアカの他人のAさんとBさんの先祖が、何代か前で必ず同一人物にいきあたる、ということである。

要するに「私の先祖はみんなの先祖」ということになるのだ。

つまり、自分の先祖を供養するということは、同時にアカの他人の先祖も供養していることになる。先祖供養という行為は、自分のためだけでなく、知らず知らずのうちに人のためにもなる行為でもあるわけだ。

さて、以上のことだけでも、先祖供養というのは奧が深いということがお分かり頂けると思うが、このあとさらにいろいろな意義がある。

今回はこれまで。次回、さらに掘り下げた部分に触れてみたい。

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山より大きな猪は出ない

「山より大きな猪は出ない」という諺がある。

これの元は仏教が教えるところであるが、表面的には、「自分に出てくるどのような試練も、すべて自分が乗り越えられる程度の試練を仏さまはお出しになるのだヨ」ということだが、さらに深い意味があるようだ。

まず、目の前に出てきた問題から逃げずに、一つ一つ取り組んで解決していけば、それだけ自分が成長できるワケだ。

ところが、問題を解決せずに逃げていると、また別の問題が出てきて、それからもまた逃げるとしたら、また別の問題が出てくるというように、自分はまったく成長できないのに問題ばかりが山積みになってしまう。

そうなると、肉体的・精神的に破綻をきたすような状況に陥ってしまい、最悪の事態を招いてしまうことも起こりえる(殺人やら自殺やら・・)。

最悪とまではいかずとも、さまざまな事態を招く状況を作る原因はどこにあるかといえば、問題に原因があるのでも他人に原因があるのでもなく、キビシイようだが、結局のところ、問題をほったらかしにしている自分に一切の責任があるのだ、ということになる。

「山より大きな猪は出ない」という諺には、どうやら上記のような意味も暗に含まれているようである。

ならば、どうすればよいか。

1.とにかく問題に立ち向かって努力し、解決する。

しかし、手段を間違うと、問題が大きくなる可能性もある。この場合は間違っていたと気付く(認める)ことが大事であり、それによって、新たな手段を見出せることもある。

それでもムズカシそうだったら・・・

2.経験豊かな他人に相談し、アドバイスを仰ぎ、解決する。

経験豊かな他人が近くにいなかったら、著書やネットなどからよさそうな情報を集めることも有効な手段である。つまりこの場合、著書やネットが「経験豊かな他人」に相当するワケである。

いずれにしても「山より大きな猪は出ない」わけだから、自分に出てくる問題で解決できない問題は決して出てこないということを肝に銘じることが大事であろう。

そして「なぜ自分ばかりがこんな目に遭うんだ?」と思っては決してならない、ということである。

こんなことを、人生の一つの道しるべにして生きていきたいものである。

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予言とは?

最近、TAKUの日記というブログが注目されているそうで。

TAKUさんという方がどういう方なのかは存知上げないが、なぜ氏のブログが注目されているかというと、先日のWBAライトフライ級タイトルマッチの、試合運びから、判定で亀田が勝って新チャンピオンになるということまで、今年の5月の時点で言い当てているからだ(氏の5/24付のブログ記事をご参考)。

ただ「八百長で」ということまで真実かどうかは知る由もありませんが・・・。氏のブログは、ただ単に読んでるだけで面白いが、ワタシ的に興味を持ったのは、約3ヶ月も前に、よくぞあれだけ具体的に結果を言い当てられたもんだということ。

たしかに、ずっとボクシングに注目し、多くの試合を見てきていると、ある程度の予測は可能であるだろうし、実際、TAKUさんと同様の予測を持っていた人も大勢いるかもしれないが、現実に記録に残しているという点に敬意をはらいたい。(たまたま当たったのかもしれないし、なんのことはない、実は裏事情に通じている人なのでは、と思ってしまいたくもなるが。)

世にあまた有るさまざまな「占い」は、その共通目的は「未来を予測し、よい方向に進める対応策をとろう」ということであり、ほとんどはいわば統計学であり、膨大なデータを元に一定の方程式を導き出したものであるといって過言ではあるまい。

「このような傾向で物事が運ぶだろう」という一つの目安にはできると思うが、100%当たるということは無い。どんなに優秀な占いでも、当たる確率は最大でも80%ぐらいではなかろうか。(だから「当たるも八卦」などといわれるのではないだろうか、というのは私見です^^;)

当たる確率がほぼ100%で、日付や状況まで具体的なものであるほど、それは占いの領域を超え、予言といわれるようになる。また、同時に予言には、警鐘を鳴らすという意味も含まれる。

歴史上の人物でいえば、世界三大聖人といわれる、お釈迦さま、イエス・キリスト、マホメットなどは予言者の筆頭とされる。正確には、イエス・キリスト、マホメットは預言者(神の言葉を伝道する者)という方が正しいようだが。

その後の歴史においても、宗教者や偉人などに予言者といわれる人はいるようだが、いずれにしても、予言者と呼ばれる人は、つぶさに状況をとらえ、分析する能力が人並みはずれて長けていて、プラスやはり特殊な才能を持っている人(常人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたりというような)、ということがいえそうだ。

しかし、予言というものの中には、世間を騒がすだけの迷惑なものが飛び出してくることもままある。

ここで一つ、お釈迦さまが示唆しているのは、(予言などを含めた)神通力というものは、他の悩み苦しみを取り除いてあげたいという必死の願いで自己を高めようとする修行の結果、自然に身に付くものであり、神通力を身に付ける目的で修行するというのは間違いである、ということである。

お釈迦さま自身もたいへんな神通力を身に付けておられたそうだが、あえてそれを駆使するようなことはほとんどなく、ただひたすら人の苦しみを取り除き、お釈迦さまと同様の悟りに至らせたいという願いで教えを説かれたと仏典は伝えている。

冒頭のTAKU氏のような予言?ならば個人的に楽しめるが、世の危機感をいたずらに煽るだけの予言などに惑わされることなく、自分を高めるための精進に日々励みたいものである。

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スピリチュアリズム

巷では、WBAライトフライ級の新チャンピオン亀田興毅の話題で湧いておりますが(などといいつつ、私もしっかりテレビで見ましたが^^;)、それにしても、あの判定はオカシイ等々、さらにいろんな波紋が広がってますね。

流行りといえば、スピリチュアリズム。これも、江原啓之氏等がテレビ番組を通して、いろんな話題を呼んでいますね。正直、私も「オーラの泉」は好きで、ときどき見ています。

ところで、そもそもスピリチュアリズムとはどういうことかというと、私の理解では、一口で言うと「人は霊」ということだと思います。元々霊界に住む魂が、肉体に重なって、一人の人間を構成しているのだと。

従って、人間が人間として生きるためには、現世のルール(倫理・道徳・宗教など)だけでは足りず、霊界のこともきちんと理解し、霊界のルールにも沿って生きなければならないと。

そうなると、霊界のことを知り、認め、理解しなければ、まともな生き方はできないということになりますが、だいいち、霊界が存在するというのなら、いったいどこに存在するのでしょうか。それをどのように証明するのでしょうか。

とても興味を引く話であることはたしかですし、実際私も、関連するテレビなどはよく見ます。だからといって、そのことだけを追求しても「間違いない、これだ!」という結論に辿り着くことはできないでしょうし、追求する時間がもったいない。結局のところ「信じる」しかないのです。

さて、霊界の存在を信じて認めるとして、霊界の仕組みを理解したならば、それで充分でしょうか。それで究極の幸せを手にすることができるのでしょうか。

そこで、ほんとうの仏教、ほんとうにお釈迦さまがおっしゃりたかったことに耳を傾けると、この世(現世)もあの世(霊界)も、また、それらを司っているとされる神仏の世界も全て、真理・法則(いわば、宇宙の根源的な力)の具現化であると。

つまり、信じ学び追求すべきは、真理・法則であり、その上で、具体的にどう生きるのが正しいかということを学び、実際に生きるしかないということになります。

そういう意味で、昨今いわれるスピリチュアリズムも大事なことではあると思いますが、それを超えた、いわばウルトラ・スピリチュアリズムとでもいえるお釈迦さまがほんとうに説きたかったことをひも解き、人間らしいほんとうの生き方を学ばねばならないと考えます。

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仏教とは?仏とは?

仏教とはなにか?

一般的かつ大概的には、お釈迦さまによって説かれた教え、お釈迦さまが開いた宗教、という回答でよいと思われる。

しかし、真の仏教徒あるいは仏教を深く学んだ人は、もう一つ、重要な回答を知っている。それはつまり、仏教とは「仏になるための教え」ということであり、「誰でも仏になれるということに気付かせる教え」ということである。

ではいったい、仏とはどのような存在か?イメージとしては、やはり、お釈迦さまのお姿、生涯を思い浮かべるのがよい。

お釈迦さまは、全ての人の悩み苦しみを取り除き、幸せにしたいと考え、その一心で悟りを開いてから亡くなる間際まで、人びとに教えを説き続けた。

そのような心がいわゆる仏心(ほとけごころ、ぶっしん)であり、その心はどんな悪人にでも備わっていると説かれる。

つまり、他の人の悩み苦しみを取り除いてあげたいという心が仏心であり、そのような心境で行動する人が仏であるということもできる。

さて、最近、その仏というものについて、素晴らしい解釈をされているサイトに出会った。そのサイトは「バカデラ住職 不立文字」というところで、そこでは次のように語られていた。

「仏教とは一人間が無敵になるための教えともいえると思う。文字通り「敵無し」、この状態こそ、最強の状態であるが、それは実に容易い?ことで、ようは誰をも敵視しなければ敵が無くなる訳です。(たとえ相手に敵視されようと)

どんなに豪腕な格闘技のチャンピオンであれ敵視する対象があるかぎり無敵とは言えないので、真のチャンピオンではない。」

なんてわかりやすい解釈であろうかと思った。

以前、こんな話を聞いたことを思い出した。

「誰とでもウマが合う人。その人こそ仏である。」

我々俗世で生きる人間は、仲の良い友人を大勢もっている人もいるだろうが、カンペキに誰とでもウマが合う人というのはいないのではなかろうか。人間である以上、そんなことは不可能であると考えられる。

しかし、それは可能なことなんだよ、と説かれているのが仏教である。そのために、生かされている命を生きる、そしてその方策が説かれているのが仏教である。

理論はカンペキだが、やはり実践するとなるとむずかしい。だが、千里の道も一歩から、常に一歩を踏み出す努力をしたいものである。

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大仏師 松本明慶師

松本明慶(まつもと・みょうけい)という方をご存知であろうか?

ご自身のHPはないが、ジャーナリストの山本皓一氏のサイト他、松本明慶で検索するといろんなサイトがヒットするので、仏像彫刻に興味のある方は、ぜひ一度ご覧になって頂きたい。

鹿児島県の最福寺に安置されている大弁財天は、木彫りの仏像としては世界一の大きさ(高さ18メートル)だそうだが、この弁財天の像を彫られたのが、ほかならぬ、この松本仏師なのである。

実は私も、今まで全く知らなかったのだが、ある仕事の関わりでつい先日、直接ご本人にお会いする機会を頂いた。

お会いしたときの第一印象は、こだわりの店のマスターといった感じ。年齢は61歳になられるそうだが、50歳前後にしか見えない。

しかし、仏像彫刻にかける情熱は、おそらく私なんぞは想像もできないぐらい熱く、深く、崇高な心をもっておられるだろうことはひしひし感じられた。

一番おどろいたのは、デッサンをすることなく、また、彫刻の元になる木にラフスケッチをすることもなく、ひたすら元木と対話し、それが数日に及ぶこともあり、そののち、おもむろに刀を手にし、仏像を彫り出す、ということ。

そう、仏像を「彫り出す」というのが大きなポイントで、あくまで、自分が考える形の仏像にするために切り刻むのではなく、既に、元の木にいらっしゃる仏様を、周囲の余分な木を取り除くことによって、現出させるという感覚なのだそうだ。

まさしく天賦の才能としか思えない。しかし、実弟の死という悲しい出来事が、仏像彫刻の道に入るきっかけにはなったのだが、しかるべき師匠を求め、師匠の指導の元、その後の努力も想像を絶するものがあったようである。

やはり、天才を生むのは努力が不可欠ということが、ここでも確認することができた。

しかし、実際にお会いした師や、そのお弟子さん達も、実直さのなかに陽気さを兼ね備えた、温かい人達だった。

大きな目標を見据え、一心不乱に努力する・・・しみじみ実感させられたが、何かこう勇気を頂戴した感じがする有り難い出会いだった。

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祝福神

スピリチュアル・エレガンス ←こちらさまのブログを拝見していたら、以前聞いたことを思い出しました。

「祝福神(しゅくふくじん)」。七福神をもじっているワケなんですが、自分を、そして回りの人をも含めて、命を活き活きさせる七つの言葉です。

・ありがとう
・うれしい
・楽しい
・ツイてる
・大好き
・愛してる
・幸せ

これらの言葉を口にするだけで、生命活動を活性化させることができるのだそうです。

特に、「ありがとう」という言葉は王様的存在で、「ありがとう」と紙に書いて、水を入れたペットボトルに貼っておくと、水の味がよくなるそうですよ。

逆に「ばか」と書いた紙を貼ると、水がまずくなるそうです。

その水を凍らせるとよくわかるそうで、「ありがとう」の紙を貼ったペットボトルのほうの氷の結晶は多重六角形のとても美しい形になるそうで、「ばか」の紙を貼ったほうは、形が六角形にならず、ひしゃげた形の結晶になるという実験結果もあるのです。

人間の体は、子どもは約75%、大人でも約60%が水分だそうですから、人体への影響もかなりあると想像できますね。

つとめて、祝福神の七つの言葉、とくに「ありがとう」を口にしたいものですね。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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