先祖供養についての考察および解説(学ばせて頂いたことのご紹介)は、ひとまず完結させたと思っていたが、あちこちのサイトを巡っていると「先祖の祟り」などという言葉がちょくちょく目につき、なおざりにできないと思ったので補足したい。
まず、祟るという意味を辞書で調べると次のように載っている。
(1)神仏・怨霊・物の怪(け)などが災いをする。
「悪霊が―・る」「ふりにし恋の神さびて―・るに/古今(雑体)」
(2)ある行為が原因となって悪い結果をもたらす。
「無理が―・って病む」
上記の説明は、全て正しいとはいえない感じがする。
結論からいうと、神仏が祟るとか、ましてや先祖が祟るなどということはありえないと考えたほうがよい。
たいていのまともな親ならば、我が子には幸せになってほしいと願うばかりで、不幸になってほしいなどとは思わないだろう。しかしながら、昨今は、親が子を殺すなどという痛ましいニュースを耳にすることも少なからず起きてしまっている世の中であるが、それでも、そのような行為に及んだ親は、激しい後悔の念にさいなまれながら一生を終えるはずである。
そうなれば益々、遺された子孫の繁栄を願いこそすれ、祟るなどということはありえないと考えたほうが自然なのである。
仮に、自分の先祖に、そのような不幸な行為を犯してしまった先祖がいることがわかっているなら、その先祖を反面教師とし、他に幸せを及ぼすことができるような人生を歩もうと決意し生きていくことが、そのような先祖にはなによりの供養になるであろう。
さて、では祟るとはどういうことか?何が祟るのか?
いろいろ学ばせて頂く中で得られた結論の一つとして、祟りの元となる何者かのことを怨霊などと表現されるが、結局、その怨霊を呼び込むのはおのれの生き方の心構えとしての不摂生・不養生が原因である、ということである。
怨霊を呼び込むような心とは、自分さえよければ他人はどうなっても知る由もないというような自己中心の心、他人の不幸を願い、他人の幸せを妬み、怨む心である。
怨霊などというものの存在は肯定も否定もできないが、一種のウイルスのようなものと例えると判りやすいと思う。
風邪のウイルスは、空気中にたくさん漂っているが、健康を保っている肉体には、感染しても発病することはないのと同様に、健康な精神には、怨霊などという得体のしれないものが入り込む隙はないのである。
健康な精神とは結局、先祖供養その3でまとめたように、感謝の念で先祖供養ができ、命の尊さに目覚め、先祖供養を他人にも勧め、未来の幸せをも願うような心である。
そしてさらに、そのような健康な精神は、元々誰にでも備わっているのだとお釈迦さまは説かれており、それを仏性(ぶっしょう)というが、その仏性に目覚めようというのがお釈迦さまの教えである。
身体の健康には誰でも関心があると思われるが、心の健康にも目を向けて生きることがより大事なことなのである。
←宜しくお願いしますm(_ _)m
←BEACHのメインページです
[0回]
PR
COMMENT