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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

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カテゴリー「仏教」の記事一覧

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人間らしい人間

『嫌々(いやいや)乍(なが)ら仕事をする人間
それは牛馬(ぎゅうば)と同じではないか

命ぜられた丈(だけ)をする人間
それは囚人と変わらない

自ら思い立って働く人間
それが人間らしい人間だ

生かされている恵みに感謝して
じっとしていられない心の迸(ほとばし)りが
働きとなって現れる人間

それが人間の中の
最高級の人間である』

これは、明るい社会づくり運動(現在はNPO法人に認定されている)の提唱者である、庭野日敬氏が詠まれた詩です。普段の自分の行ないを振り返ると、嫌々ながら行なったり、言われたことのみを行なったりしていることが随分多いなぁーと恥じ入る気持ちになります。

また、自ら思い立つことだってたくさんありますが、その動機が「生かされている恵みに感謝する」ことは少ないなぁーと思い知らされます。

座右の銘にしたい詩であります。

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修行について

明日で父の三七日になります。今日は日曜日で、めずらしく仕事も休みをもらえたので、一日繰り上げて三七日の法要を執り行わせて頂きました。しかしながら仕事は、一気に多忙モードに突入しまして、今月は出張の嵐です;

さて、本日1月20日は二十四節季の大寒であります。この1月20日から2月3日の節分までの15日間もしくはこの期間のうちの数日間、よく仏教寺院や武道の道場などで寒修行とか寒稽古といった伝統行事が行われます。

特に、寒修行という場合、寒中になされる修行ということでありますが、さらに修行という場合、これは主に仏道修行のことを指します。(ご興味がおありの方は、goo辞書ウィキペディアなどで調べてみてください。)

少し余談ですが、「しゅぎょう」といった場合、厳密には修行と修業の2種類があります。修業のほうは、特に学問を修めるという意味に用いられますが(それが終了すると卒業というワケ)、修行というのは行を修める、さらに行というのは「行者」などという言葉もあるとおり、仏道という意味があります。

さてこの修行、一部では歯を食いしばってやるものとか、ひどい場合は強制的にさせられるものといったような解釈もあるようですが、それは、苦行もしくは強制労働とか人権蹂躙に値するものであり、修行とは全くかけ離れたものです。

本来、修行とは、自分で目標を定めて取り組むもので、やり遂げた後に達成感が味わえるものであり、それによって肉体的・精神的にステップアップするものであります。

従って、逆にいえばステップアップするためには、ある程度の辛さが伴う場合もありますが、それはあくまで、本人が乗り越えようとして目標を定めることに意味があるわけです。

仏教には「死ぬまで修行、死んでも修行、生まれ変わってまた修行」などいう言葉もありますが、極論をいえば「人生そのものが修行」ということがいえるわけであり、とにかく生命とは永遠に成長するものである、そういうシステムになっているということが仏教で教えられているところであるとも受け取れます。

ときどき息抜きは必要ですが、永遠の成長の中に生かされ生きているということを自覚できるようになりたいものです。

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自然(じねん)の智慧

多忙モード継続中ですが、年末年始の準備もあと少しといったところです。ちょっと一息ついておりましたところ、なぜか以前勤めていた会社の社長の言葉がよみがえってきましたので味わってみようと思います。

その社長もすでに勇退されておりますが、よく結婚式の祝辞などで「できる人、できた人」というお話をされておりました。

内容は・・・
「我が社には、優秀な人材、いわゆる『できる人』が大勢おります。ところが、『できた人』といわれる人はなかなかいない。『できた人』というのはつまり、他人様から「あの人はできた人だ。」とか「あそこの家は、よくできた夫婦だから、子どものしつけもよくできている。」などといわれる人のことです。そのように、他人様から『できた人』だといわれるような夫婦になれるよう、ぜひ努力していただきたい。」
といった感じです。

20年ぐらい前のことなので、私自身その当時は「なかなかウマいこと言うなぁ。」ぐらいにしか思っていませんでしたが、これはまさしく、仏教がめざす「成仏」、つまり「人格完成」のことを言っておられたのだと気がつきました。

ただ、当の社長が仏教徒であったかどうかも分かりませんし、成仏とか人格完成などということを暗に意識してお話されていたかどうかも定かではありませんが、社長ご自身の長い人生経験の中から導き出された、社長ご自身の言葉であったことは間違いないと思われます。

妙法蓮華経の嘱累品(ぞくるいほん)というお経の中に「自然(じねん)の智慧」という言葉があります。これは、直接お坊さんなどから仏教の教えを聞いたり、仏教の書物を読んで勉強したりするのでなくとも、理にかなった正しい行動を繰り返し行っていると、智慧(知恵ではない)が自然に身に付くのである、ということです。

ある時ふと、「ひらめいた!」というような経験が誰にもあると思われますが、これもやはり、常々いろんなことを思い、行動し、それを継続することによって沸き起こる一種の智慧なのかもしれません。

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仏の智慧

ちょっとイイ話を聞いたのでメモっておきます(久しぶり)。

臨済宗(だったかな?)の、名前も失念してしまいましたが、あるエラいお坊さんが詠んだ道歌に、次のようなものがあります。

生まれ子の
次第次第に
知恵つきて
仏に遠く
なるぞ悲しき


意味はそれほど難しくないと思います。要するに、悲しいかな年を重ねて大人になるにつれ、いろんな知恵がつくことによって、本来仏と同じであるはずの純真無垢な心が薄れていってしまう、ということです。

知恵というのは、簡単にいうと一つには知識ということです。ある程度知識を身につけるのは生きていく上で必要なことであります。しかし、その他の意味にはズルさということも含まれているようです。いつしか個人的な好き嫌いが判断の基準になり、無意識のうちに世渡り上手になろうとしてしまっていることが往々にしてあるのではないでしょうか。

仏教でいう智慧とは、たんなる知恵ではなく、智とは「分析」を意味し、慧とは「総合」を意味しているといわれています。分析とは、物事の相違点を見出すこと(分解)、総合とは、物事の共通点を見出すこと(構築)ということです。

これは、何事においても重要な能力であると思います。これを人間を観る立場とすると、太郎と次郎は体格も性格も違いがあるが(分析)、動物や植物をかわいがるやさしい心は同じである(総合)など、相違点だけでなく共通点も見出す、そういう両面の見方が大事ですよ、というのが智慧ということであります。

さらに、仏の智慧という場合、その判断の基準は、損得や好き嫌いなどでは当然なく、慈悲である、ということです。この慈悲ということも、簡単にいうと「愛」ということですが、これもあえて詳しくいうと、「慈」とは楽を与えてあげたいと思う心、「悲」とは苦しみを取り除いてあげたいと思う心をいいます。

年をとるにつれ、さまざまな知恵が身についてしまうのはある種仕方のないことのように思いますが、智慧と慈悲の意味を忘れないようにしていきたいと思います。

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損得抜きの実行

仏教の経典の無量義経というお経の中に、「微渧(みたい)先(ま)ず堕(お)ちて以(もっ)て欲塵(よくじん)を淹(ひた)し」という一節がある。これは、「露のしずくが乾いた土の上に落ちると、そこのところだけ塵(チリ)が立たなくなる」ということである。

これの意味するところは、どんなに小さな、どんなにムダと思えるようなことでも、とにかく一歩を踏み出す、そのことがたいへん大事なことなのだということを示唆しているといわれている。

振り返ってみると、小さなこと、ムダなことでなくとも、とかく「そんなことをしてもあんまり意味がないだろう、何も変わらないだろう」あるいは、「骨折り損のくたびれもうけ」とばかりに、まず損得勘定をしてしまい、実行しようとすら思わないということが多いのではなかろうか。

別に損得勘定が「悪」だと言っているわけではないが、ムダと思えるようなこと、あるいは、明らかに失敗したこと、損をしてしまったことから新たな発想が生まれるということも往々にしてある。(ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんなども、失敗の連続だったそうであるし。)

先日テレビを観ていたら、ほとんど役に立ちそうもない珍道具なるものを次々と発明しているという、日本珍道具学会というところが紹介されていた。そこにある珍道具十カ条というのが面白く、中でも、「実用になってはいけない」「市販されてはいけない」「金儲けは厳禁」という条文には思わず吹き出してしまった。

しかし、そこの学会の会長(といっても、会員は会長ただ一人(笑))のおっしゃることに思わず頷いてしまったのだが、現在の社会の発想の原点は、役に立つもの、便利なもの、量産できるものといったところにあり、それが逆に発想の力を抑え付けてしまっており、それを打破するためには、逆転の発想が大事なのだということだった。

「逆転の発想」という言葉自体は昔からあるが、逆転ということをより具体的に、「実用になってはいけない」「市販されてはいけない」「金儲けは厳禁」と言い切る会長のユニークさには敬意を表したいという気持ちになる。

ただ、その奥底には、やはり大きな目標があるわけであり、それはつまり社会貢献ということではなかろうか。その目標に向かうスタート地点はたくさんあり、その中の一つとしての逆転の発想、損得抜きの実行ということがあってよいはずである。

どんなにムダと思えるようなことでも何かの役に立つかもしれない、そんな発想を大事にしたいと思う。

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正しいとは?

10月13日は日蓮が亡くなられた日である。この日の前日となる10月12日をお逮夜(おたいや)といい、まとい、万灯、笛、鐘、太鼓などの行列で、日蓮宗系のお寺の境内などを中心に練り歩き、日蓮への供養を捧げる「お会式(おえしき)」という行事が執り行われる。

さて、この日蓮という人物、たいへん血気盛ん、かつ人並み外れた強固な信念を持った人だったようである。代表的な言葉に、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言い放ったという、いわゆる四箇格言がある。

戦乱真っ只中の鎌倉時代にこんなことを大声で口に出したらどうなるだろうか。当然ながら日蓮は幕府に捕らえられ、処刑されそうになった。いや、実際、処刑場に引き連れられ、首を刀で切られそうになったのだが、まさに首を切られようとするその瞬間、稲妻のような光が輝いたと思ったら、刀がバラバラに砕け折れてしまったのだそうだ。もちろん、真偽は定かではないが、今日までそのように言い伝えられている。

日蓮を処刑したら何か崇りがあるのではと恐れた幕府は、日蓮を処刑することは取りやめ、佐渡へ流刑することになったのである。

その他にも日蓮は、数多くの弾圧や迫害を受けているのだが、ことごとくそれらを乗り越え、さらにそれは妙法蓮華経というお経に書かれているとおりであったことに気付き、益々、法華経によって世を救うのだという決意を固めたそうである。

それほどすさまじい生涯を送った日蓮であるがゆえに、その弟子達の帰依心も相当なものであったことは容易に想像できる。しかし、日蓮のやり方が正しかったかどうかというのは別問題ではなかろうか。

たしかに、幾多の戦乱が起こり、天変地異も続き、疫病などの病気が蔓延していたような時代であり、世の中の人々の苦しみがいつになったら尽きるのかわからないような時代だったからこそ、日蓮のように声を大にして革命的なことを訴える人が必要だったのだという推測はできるが、それがいつの時代にも通用するかというとそうではない気がする。

さらには、お釈迦さまの教えはもう通用せず、今の世の中、仏としてあがめるべきは日蓮である、などと宣言している新興宗教もあるようだが、本末転倒もはなはだしいというべきであろう。

正しいのは宇宙の法則(いわゆる真理)であり、その法則に従い、他と調和して生きることである。法則を無視したら、とばっちりを受けるのは無視した本人である。正しいということを突き詰めていけば、ただそれだけのことである。

ゆえに、この法則を発見し、示してくださったお釈迦さまにはどんなに感謝してもしきれるものではない。さらに、日蓮含め、あらゆる祖師達は、お釈迦さまの教えを説き広めてくださった大先輩であり、大恩人であるということを忘れてはならないと思う。

大事なのは、その正しいことをこれから子孫にどのように伝えていくか、その時々に合わせてやり方を工夫する必要があるということである。

日蓮の遠忌法要となる10月、正しいということの原点を振り返り、改めて心に留め置きたいと思う。

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信じるということ(その2)

以前、信じるということについて書かせて頂いた。そこで、親鸞(しんらん)が著された歎異抄(たんにしょう)にある一節「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」を紹介し、親鸞の信心の深さを味わった。

今回、その歎異抄から、もう一節紹介したいと思う。それは「たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」という一節である。この意味は、「法然にだまされたとして念仏を行い、その結果、地獄に落ちたとしても後悔はしない」ということである。

法然は、浄土宗の開祖であり、親鸞の師匠である。

それにしても、この歎異抄の一節にはおどろかされる。微塵の疑いも持たず、100%信じきっていなければ、この言葉はでてこない。これだけの覚悟を持って生きるならば、怖いものなど何一つないだろうと想像する。

一方、盲信もしくは狂信ではないかという恐れもあるが、それは反社会的な言動に及んだ場合のことである。しかし、実際、法然や親鸞の時代には、念仏は時の権力から弾圧され、流刑に処されたりもしているが、今の時代からすれば、間違っているのはその時代の権力であることは誰も疑わないのではないだろうか。

とにかく、八万四千の法門といわれる仏教経典の中から、法然や親鸞は念仏を選び出し、人にも薦める生涯を送ったわけだが、それはとりもなおさず、悩み苦しむ人々を救いたいという一心にほかならない。

自分が幸せになりたいということ以上に、この、人を救いたいという心があってこそ、ほんとうの信心が成立するのであると考えられる。

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供養のあり方

以前、供養ということについていろいろ書かせて頂いた。先祖供養3をご参考願いたい。

そこでは主に、供養の意義的なことの紹介に終始し、具体的な方法については詳しく触れなかった。それは、当然ながら宗教や宗派の違いによってその方法は多種多様であり、全て紹介することはできないし、私自身、全て知っているわけでないからである。

しかし、神仏を敬ったり、先祖を供養するということの心境や姿勢には大きく共通する点があると思う。具体的には、花や香を捧げて場を清らかにする、飲食物などを捧げて感謝の誠を捧げる、手を合わせ、瞑目して頭(こうべ)を垂れて礼拝するなどの行為は、全ての宗教儀式に共通する行為である。

いや、無宗教の人であっても、特に日本人は、元旦にわざわざ神社や仏閣へ出かけて行ってお参りするなど、これも供養のあり方の一つであろう。ただ、この場合、供養ということよりむしろ、願望成就目的という意味合いのほうに片寄っていることも多いと思われるが、まあ、なにもしないよりはマシといえようか。

以前、供養とは、「供給(くきゅう)」と「資養(しよう)」という二つの意味から出来ている言葉であることを書かせて頂いた。供給とはさまざまなものを供えること、資養とは自分の心を養うこと、という意味である。こう書くと、2つの言葉が合わさった一つの単語ということになるが、実質的には、さまざまなものを供える供給という行為を積み重ねることによって、自分の心が養われ、整えられるということになるのである。

つまり、願望成就の目的のみで、いわゆるギブアンドテイクの発想で供養やお参りをするというのは、ちょっと違いますよ、ということである。あるいは、自分の精神修養の目的で供養やお参りをするということではない、ということにもなりそうである。いや、自分の精神修養を目的にすることが悪いといっているのではないし、それは大事なことである。

純粋に、神仏に畏敬の念を持ち、先祖に感謝の念を持ち、さまざまなものを供えたり、礼拝したりすることが最も大事なことであって、結果的に、自分の心が養われたり、もっと言えば願望成就にもつながるのだということがいえそうである。俗にいう「情けは人の為ならず」ということにも通じるだろうか。

さらに言えば、自分のためだけの行為というのは、えてして長続きしないものである。

神仏への畏敬、先祖への感謝を常に忘れず、その恩返しの心境・姿勢で日々生活することが一番大事なことと思われる。

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やってみせる

「やってみせ
 言って聞かせて
 させてみて
 褒めてやらねば
 人は動かじ」
とおっしゃったのは、いわずと知れた第二次世界大戦のときの大日本帝国海軍、山本五十六元帥の言葉である。この言葉自体、もはや説明の必要もないと思う。

さてさて、上記リンク、ウィキペディアの中では、この言葉は、「なせばなる~」で有名な、第九代米沢藩主、上杉鷹山の「してみせて、言って聞かせて、させてみる」という言葉が元になっているという説明があるが、それとまた違う話を聞いたことがある。

それは
「やってみせ
 言うて聞かせて
 させてみて
 褒めてやらねば
 人はできぬぞ」
という言葉。この言葉は、歴史上のある有名なお坊さんがおっしゃったのだそうであるが、それが誰だったかは、残念ながら失念してしまった。

ほぼ違いは、「人は動かじ」と「人はできぬぞ」という部分のみである。両方並べてみると、やはり「人はできぬぞ」のほうがどうやらオリジナルな感じがする。やってみせて、言って聞かせて、させてみて、褒めてやっても、人は動くとは限らないからである。

まぁしかし、最後の部分よりむしろ、まず自分がやってみせる、言って聞かせて人にもさせてみる、そして褒めてやる、というそのこと自体が重要であると思われる。褒められて悪い気分になる人はほとんどいないと思われるからである。

さらに重要なのは、まず自分がやってみせるということであろう。昨今、人にはあれこれ指示はするが、自分はなにもしないという人が増えている感じがする。やはり、成功している企業や、魅力あるリーダーというのは、まず自分がやってみせるということを実践されているところである気がする。

まず自分がやってみせるということを大事にしたいと思う。

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神と仏は別物か?

あらゆる宗教には、崇拝(信仰)の対象となるモノがある。天地創造の主から、果てはイワシの頭まで、それはそれは極めて多種多様であるが、それら多種多様な崇拝対象の元をたどり突き詰めていくと、とりあえず2つに絞り込むことができる。それがつまり、神と仏ということである。

まず、神ということについて。一口に神といっても、さまざまな種類があり、レベルがある。先史の昔から、洋の東西を問わず、人々は天地自然動植物に神が宿っていると考え、あがめてきた。

ここでいう神は、正確には精霊とか天使と呼ばれるものであり、後述する神をあえて大神と呼ぶとしたら、この精霊はレベルが低いというか、大神に支配されている、もしくは大神の手足となってはたらく小神であるといえる。

人間としての文化が発達してくると、殿様や将軍や天皇を神として祀って神社が建てられたりするが、これすらも小神の部類である。

あるいは、日本においては、それらよりレベルが高いと思われる稲荷神、八幡神、天照大神(アマテラスオオミカミ)でさえも小神の部類であり、特に八幡神は、仏教においては仏法守護神として位置づけられている。(仏法守護神という意味では、他に七面大明神、鬼子母神、帝釈天、毘沙門天などがあり、それぞれ祀られている神社もある。)

また、諸外国においても、砂漠の気候、熱帯雨林の気候のそれぞれの土地における土着信仰においてあがめている神は小神の部類といえる。(ここで、小神といってこれらの神や神社を低く見たり、さげすんだりしているのではないことを断っておく。)

さて、では我々人間を含めた生きとし生けるものや、それらの小神をも支配し、頂点に君臨する大神とはどのようなものか。

それは、いわゆる天地創造の主(と考えられる存在)のことであり、ユダヤ教やキリスト教のヤハウェ(もしくはヤーベ)神、イスラム教(正しくはイスラーム)のアッラー神がそれである。さらに、ヤハウェ神とアッラー神は別物かというと、どうやらそれは全く同一のものであり、俗に唯一神(ゆいいつしん)と呼ばれている。こちらのサイトに分かりやすい説明があったので参照願いたい。

この唯一神は、天地=宇宙を造った創造主であり、我々を教え導いて下さっている絶対的で偉大なる主であるということが聖書やコーランにも書かれているそうだが、この創造主が、いつから居たのか、どこから来たのか、なぜ宇宙を造ったのかということまでは詳しく説かれておらず、その点があいまいである。

(話がそれるが、宇宙がビッグバンという大爆発から始まったという考え方は、聖書に書かれている天地創造の物語が元になっているようであり、その科学的根拠は後付けのようである。したがって、今の宇宙科学でも、ビッグバン以前に何があったのか、なぜビッグバンが起こったのかは全く解明できていない。ビッグバンについて興味がある方は、併せてこちらも参照頂きたい。)

一方、仏教でいう仏とは、如来(にょらい)と呼ばれるものがそれである。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来などなど。

これら如来は、久遠の本仏のはたらきの一つの表れにすぎず、久遠の本仏とは、無限の過去から無限の未来まで(無始無終)、ありとあらゆるモノを生かしている存在であると説かれており、さらにいえば、我々自身の中にも仏=仏性が存在し、それに気付きさえすれば、我々も仏になれると説かれている。

この点は、信仰観の部分なので今回はこのへんで留めておくが、要するに、信仰観を抜きで考えると、唯一絶対の創造主である神と、無始無終の仏(=久遠の本仏)とは、全く同じものであると考えられる。

つまり、人それぞれの信仰観の違いによって、さまざまな宗教が生じているだけのことであり、我々が全身全霊を預けることができる真に尊い存在は一つであると考えられる。

かといって、さまざまな宗教が生じることが悪いことでなく、むしろTPOとしてたくさんの宗教が存在することによって、より多くの人が救われることにつながるとも考えられるのだが、宗教の必要性もしくは善悪ということについては、今後さらに研鑽していきたいと思う。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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