年明け早々から、連日のように殺人事件が報道されている。それも、親が子を殺すとか、子が親を殺すとか、兄弟姉妹を殺すとか、最も身近な人を殺めるという目も耳もふさぎたくなるような痛ましい事件である。
近年、よく「キレる」ということが取り沙汰され、自分を見失って他人を傷付けたり、殺めてしまったりということが起きているが、ただ単にキレたからといって、その都度傷つけられたりしていてはたまったものではない。そういう意味では、耐え忍ぶという心も薄れているようにも思われる。
しかし、少々キレるようなことがあったからといって、普通の感覚で「殺す」という行為にまで及ぶものだろうか。ましてや、自分の一番身近な肉親を殺めてしまうような感情というのは、もっと根本的な、大事な意識が欠落していることが原因になっているように推察する。(逆に、身近であるがゆえの甘えという状況も多分に起こり得ることかもしれないが・・・)
それはつまり、生命の尊さ・重さということである。
仏教が教えるところでは、生命とは宇宙意識そのものだということである。その宇宙意識の働きとは、新たな生命を生み、育てたいという意識のみであり、憎しみによって他の生命を絶とうなどという意識はこれっぽっちもないのである。
生命の尊さ・重さは、当たり前のように誰もが知識として知っていることかもしれないが、たんなる知識としてだけでなく、仏教でいう智慧(知恵ではない)となって体解することが大事なことである。自分の命も、他人の命も、全く同じ命であって、同じように尊く、重いものだということをしっかり認識する必要がある。
そのためには、やはり毎日毎日繰り返し、生命の尊さ・重さに思いを馳せ、生かされている命に感謝するひとときを持つことが大事なことであるし、他を生かそうとする思いやりの行動を、ほんの少しでもいいので繰り返し実行することが大事なことである、と仏教では教えている。
特に、感謝するひとときを持つことの具体的な実践方法としては、神仏に手を合わせ、頭を垂れ、生かされている命に感謝する、ということである。これは、各家の宗教や宗派に関わらず、仏壇があろうがなかろうがいつでもどこでも実行できる。
無宗教だという人ならば、親でも学校の先生でも会社の社長でも総理大臣でも、あるいはタレントだろうが気の合う友人だろうが隣のおじさんだろうが誰でもよい、この人のお陰で今の自分があるのだ、と思える人が一人ぐらいはいるものである。そういう人を心に浮かべて、感謝の思いを起こし、その思いを自分自身が意識するということが大事なのである。
一人一人がそんな思いで、生命の尊さ・重さに感謝ができるような世の中になるならば、凶悪な事件などはすぐさま消滅するのではなかろうか。また、そんな祈りを捧げつつ、日々生活できるようになりたいものである。
↓クリック宜しくお願いしますm(_ _)m
[0回]
PR
COMMENT