このブログの冒頭に、釈尊の悟りということについて端的に書かせて頂いておりますが、実際のところは、釈尊が「悟った」というのはつまり何だったのかという点は、いまもって仏教学者の間でも完全に明らかにはなっていないのだそうですが、たしかに、理屈理論で解明しようとすると無理があるようです。
釈尊が悟りを開いたときの第一声は、次のようだったといわれています。
「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな、如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるをもっての故に証得せず」
この意味は、
「不思議だ。不思議だ。一切衆生はみな、仏と同じ智慧と徳のすがたをそなえている。では、なぜ一切衆生は、闘争と苦悩の生活を続けているのだろうか。それは、正しくものごとを見ることができずに妄想をくり返しており、仮の現れである自分自身に執着しているために、自分の本質が仏と同じ輝かしいものであることに気付かないでいるのだ。」
ということです。また、釈尊が悟りを開いたのち、最初に説法したときの第一声は、
「比丘(出家の修行者)たちよ。この世に近づいてはならぬ二つの極端がある。如来(真如から来た人という意味で、要するに仏のこと)は、この二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである。」
だそうです。では、仏とは何なのか、仏の智慧(知恵ではなくて)とは何なのか、中道とは何なのかということになるわけですが、それは特に妙法蓮華経というお経を読むとなんとなく理解はできます。(ちなみに、二つの極端とは、苦行主義と快楽主義のことで、クソ真面目でもいけないし、不真面目でもいけないと解釈されています。)
簡単にいうと、仏とは命そのものであり、仏の智慧とは、命を与えようとするはたらき、ということであり、中道とは、そのはたらきを見極めるということです。さらに命というのは、始まりもなく終わりもなく、また切れ目もなくつながっている無始無終の存在だというのです。
こうなると理論的に証明することは不可能でありますが、なんとなくそのように感じたり、信じることはできそうな気がします。
自分の命とはどこにあって、どこまでをいうのかを考えた場合、例えば髪の毛を切ったとき、切る前は自分の髪の毛だったものが、切った途端に自分のものでなくなるとはいえないことはすぐに理解できるように、自分の命すら境目を明確に定義することはできないわけです。
つまり、自分の肉体は、命という大海に浮かんでいるものと考えると、肉体がなくなっても命は無くならないと考えることもできます。
生きとし生けるあらゆるものの命は一つにつながっていて、一人ひとりの肉体は、その命の具現化であると考えれば、自分も他人も同じように尊い存在であるということに気付けると思います。
命は一つということ、またその尊さについて、さらに深く研鑽してまいりたいと思います。
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