出張続きでだいぶ間が空いてしまいました。3週間ぶりの更新であります。
第45回衆議院選挙は、いよいよというか、ようやくというか、自公連立政権から民主党に政権が交代されるという結果におわりました。しかし、もちろん大事なのはこれからであって、民主党に政権が変わっても政治の中身がいままでとなんら変わらないものであるようなら、また別の政党に代わっていただかなければなりません。今後の民主党の舵取りに期待したいところです。
さて、ちょっと話は変わりますが、先日、憲法の、特にその歴史について学ぶ機会があり、そのことを少し書きたいと思います。
日本に最初にできた憲法は、聖徳太子が制定した十七条の憲法であることは小学生でも知っていることでありますが、ではなぜ、憲法が制定されなければならなかったのかということについては、忘れている人がほとんどだと思われます。
日本の飛鳥時代、現在の中国に、大統一国家、隋が成立し、聖徳太子はその大国の文化を取り入れるべく、西暦600年に第一回の遣隋使を派遣します。隋に派遣された使徒は、隋の文帝から、日本の政治のあり方について問われますが、そのとき日本にはまだ憲法はなく、しどろもどろになってしまったというのです。その結果、当然ながら日本は隋から見下されることになります。
これではいかんということで、聖徳太子は603年から604年にかけて、冠位十二階と十七条憲法を制定することになります。特に十七条憲法は、それまですでに日本に輸入されていた儒教や仏教の精神を取り入れた内容となっており、607年の第二回遣隋使のとき、小野妹子がそれをひっさげて、ときの煬帝に謁見し、日本を国家として認めてもらえたというようなことが歴史書に記されています。
その後日本は、独自の国家文化を形成し、江戸時代には鎖国などの制度もありましたが、第二次世界大戦敗戦後の昭和22年には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から提示された現在の日本国憲法を受け入れ、現在に至っております。
周知のとおり、日本国憲法の第9条は、戦争をしないという内容のものであり、これは、その背景をよくよく検証すると、GHQの提示を無条件に受け入れたということのみでなく、当時の日本国民が同意見であると大いに納得して受け入れたものであるようです。
聖徳太子の十七条憲法も、儒教や仏教を外国のご機嫌取りのために受け入れたわけではなく、儒教も仏教も、これはよい思想・教えであると納得して受け入れているのであり、聖徳太子自身が法華経などの解説書をたくさん著述していることからも伺えます。
つまり、よいものを取り入れて独自のものにしていくというのは、大昔から一貫して日本の国民性であるように思われます。
一方、見方を変えると、回りの意見に流されやすいという面もあるのかもしれませんが、とにかくよいものをよいと認め受け入れる柔軟性は、諸外国に誇るべきところであると感じます。柔軟性という性質は、進歩するのに大事な要素であると思います。
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