約1ヵ月ぶりの更新であります。極めてのんびりなマイペースです、はい(^^;)
当然この間、何もしていないわけではなく、むしろ公私とも忙しすぎて、ブログ更新にまで手が伸びなかったということでありますのでご了承の程。
言い訳はこれぐらいにしまして・・・。
さて、この間も色々と勉強やら研鑽をする中で、ふと思ったことがあります。
「人事を尽して、天命を待つ」という言葉があります。読んで字のごとく、一生懸命やることをやって、結果は神仏のはからいとか、おぼしめしにお任せします、という非常に謙虚な姿勢を表わした言葉です。
ただ、無神論者にとってみたら、「やればやった通りの結果が出るだけの話。天命を待つなどというのは消極的な態度だ。」という意見も聞こえてきそうですが、今のこの不況の世の中が逆に幸いしているのか、あまりそういうがむしゃらな意見や態度は減少傾向にあり、まさしく「天命を待つ」姿勢のほうが増えているようにも感じられます。
ところが、この謙虚そうで響きもよく感じられる「人事を尽して、天命を待つ」という言葉、よーく考えたら、欠陥があるのではないかと思いました。
「人事を尽す」だけを切り離してみると、じゃあ、どういうふうに人事を尽すの?という疑問が湧いてきます。もちろん、さまざまな場面で、その時々に正しいこと、やるべきことをキチンとやること、ということではありますが、その時点で、「天命」いわば神仏が願っていることを知らずに、あるいは無視してする努力というのは、結局ムダが多いのではないでしょうか。
つまり、あらかじめよく知っておかなければならないのは「天命」のほうであり、それをよく理解した上で、じゃあ、どのように人事を尽すかという具体論に進んでいけるのだと思います。
要するに、「天命に従い、人事を尽す」という言い方のほうが、より本質をついていると思うのです。
仏教には、「自灯明・法灯明」という言葉があります。以前にも何度か紹介させていただきましたが、かんたんにおさらいすれば、「自分の進むべき道は、他に頼らず自分で判断すべきであるが、その判断基準は、あやふやなものによらず真理・法を基準にしなさい」という教えであります。
神仏の願い、真理・法を追求しつつ、それを道標としながら、他人のせいにしないで自分で進む、ということでありましょう。
「天命に従い、人事を尽す」とは結局、「自灯明・法灯明」を言い換えただけの言葉のようにも感じますが、「自灯明・法灯明」をうまくブレークダウンしているように思え、気に入ってます。胸に秘めて精進してまいりたいと思います。
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