「信じるものは救われる」という言葉がある。
ある著述家は「信じるものに救われる、という言い方のほうが正しい。」ということをおっしゃられていたが、たしかに、より的確な表現であるように受け取ることができそうだが、五十歩百歩でしょう。
フィーチャリングしたいのは「救われる」ということ。
さまざまな悩み苦しみや問題が解決したとき、「救われた」と感じる場面は多々ある。しかし、また別の問題が出てくると、「救われた」と感じた気持ちはいっぺんで無くなってしまい、またそれが解決すると「救われた」と思うだろう。
これの繰り返しが人生なのだといってしまえばそれまでだが、本当の意味で「救われる」というのは、ずっと深いところにあるようだ。
以前にも何度か書いていることだが、人間には仏性(ぶっしょう)という、神仏と全く同じ性質が元々宿っており、自分の仏性に気付くことが仏教で説かれる究極の教えである。
神仏と同じ性質=仏性というのは、簡単にいえば「他を救いたい」と思う心である。苦しんでいる人、困っている人、問題を抱えている人をみたら助けずにはいられない、しかし、その問題が自分にも手におえない大きなものだったら、直接助けることができなくても、どうか助かってほしいと念じるような心である。
つまり、究極的な意味で「救われる」というのは、「自分の、そして他人の仏性に気付く」ということになる。
さて、ではどうやったら「仏性に気付く」ことができるのか。仏教的に数ある手段の中で一番実践的なのは、家族でも友人・知人でもアカの他人でも、さらには自分をも含めて、人のアラ探しをすることをやめて良い所を見つける努力をすることである。
他人を蔑んだり、自分を卑下したりすることはやめたほうがよい。大勢の先輩諸兄が実践し、証明されていることでもある。
少しずつでも実践することを続けていけば、自分や他人の尊い仏性に気付けるであろうし、そのことを信じたい。これこそが「信じるものは救われる」の本当の意義ではないだろうか。
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