前回、禅問答を一つ紹介させて頂いた。もう一つ、これぞ禅の(というより仏教の)真髄と思わせられるような問答をご紹介したい。
~五祖弘忍(ぐにん)禅師は、そろそろ弟子の一人に、初代達磨(だるま)大師から受け継いだ禅法を継がせたいと思い、弟子たちがそれぞれ修行を重ねた心境を詩で表してみよと告げた。その中でこれぞ秀逸と誰しもを唸らせた詩を書いたのが高弟の一人、神秀(じんしゅう)だった。
その詩の内容は次のようなものである。
身是菩提樹 身は是(これ)菩提樹(ぼだいじゅ)
心如明鏡台 心は明鏡台(めいきょうだい)の如(ごと)し
時時勤払拭 時時に勤めて払拭(ふっしょく)し
莫使惹塵埃 塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ
意味は、「この身は悟りを具える大樹であり、心は清浄で美しい鏡のようなものである。常に汚れぬように拭き払って、煩悩のチリやホコリが付着しないようにしなければならない」といった内容。
門弟たちは誰しもが絶賛したが、師の弘忍は、ただ沈黙しているだけである。
そんな中、その詩を見た典座(てんぞ:修行僧たちの食事係)の慧能(えのう)が、「こんな詩は禅の精神ではない」と言い放ち、次のような詩を書いた。
菩提本無樹 菩提本(もと)樹(じゅ)無し
明鏡亦非台 明鏡もまた台に非(あら)ず
本来無一物 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何処惹塵埃 何れの処にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん
意味は、「本々悟りを具える樹などというものは無い。心も鏡などではない。本来、一切の物が無いのである。したがって、チリやホコリなども付着しようがないのだ。」
門弟たちは、「なんて乱暴なことを言うのだ!」と驚き、慧能を非難するが、師の弘忍は慧能に軍配を上げた。かくして、初代達磨から受け継がれた禅の法灯は慧能に継がれることになり、慧能が六祖となった。~本来無一物ということをよくよくかみしめると、極めて広大無辺でありながら極めて現実的な意味を含んでいることが伺える。
悟りとは、どこか遠いところにあり、悟るということは、なにか特別な存在に変身するような印象を受けそうだが、そうではない。禅では、悟りは久遠の過去から悠久の未来まで、常に「いまここ」にあると説く。
自分は本々神仏と同じなのだということに気付きさえすればいい。
そして、そのことに気付いた人は、いよいよ神仏と同じ働きをもって行動したくなるのである。
知らず知らずのうちに、モノ、カネ、権威その他さまざまなあやふやなものに執着したり依存したりしてしまいがちな部分は誰しも持っているのは、いた仕方ないことであり、それが結局、本来の尊い自己に気付けない障壁になっているように思われるが、本来無一物ということに時々思いを巡らしてみて、自分ひいては全ての命の尊さということをしっかり見つめてみることが大事なことであると考える。
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