多忙モードからようやく通常モードに切り替わりました。久しぶりの更新です。
仏教について、コツコツ学ばせて頂いておりますが、最近また新たな気付きが得られましたので書かせて頂きます。
これまでに何度も、仏教とは、仏さま(釈尊)が説かれた教えを学び、身に付け、実践することによってよりよい人生を歩もうとする教えであり、同時に、仏に成る(要するに、「できた人」になる)教えである、ということを書かせて頂いた。
仏に成るということは、仏性を自覚するということであり、この仏性とは、誰にでも「備わっている」ものであると学ばせて頂いており、そのように書かせて頂いてきた。
さて、この「備わっている」という感覚は、泥水の水面に咲く蓮の花のように、汚れ多いものの中に、仏性が内在しているというイメージであり、汚れを取り除き、磨くことによって仏性が輝き始めるというように感じられる。
しかし、仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説いており、これは「あらゆるもの(一切衆生)がことごとく(悉)仏性を(有)する」という意味であるから、キレイなものとか汚いものなどという区別は無いということである。
全ての存在が仏性そのものである、ということである!キレイとか汚いというのは、人間のあさはかな才覚でしかないようだ。
蓮の花にしても、泥水があるからこそ、泥水の養分を吸い取って花を咲かせるわけであり、花と同様に泥水も尊い存在である、ということになる。
「キレイ」とか「汚い」とかを超越した「全てが尊い存在である」ということを発見し、実感されたのが、どうやらお釈迦さまの「悟り」ということであったようだ。
諸法無我(しょほうむが:すべて関係し合っている)という真理を基に考えれば、必要のないものは存在すらしないわけであるから、人間のあさはかな知恵で、むやみに排除するようなことを行うことは、真理に逆らう行為である、ということもいえる。
なかなかこのような達観した境地に達することはできないのが凡夫の悲しさではあるが、やはり繰り返し繰り返し、一日のうちほんの少しの時間でも、全てが尊い存在であるということに思いを馳せることが、自分をそして周りをも向上させる為にとても大事なことのように思う。
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