仏教に、「諸法実相(しょほうじっそう)」という教えがあります。これは、妙法蓮華経というお経の中で説かれています。同様に、無量義経というお経では「性相空寂(しょうそうくうじゃく)」という教えとして説かれており、内容はほぼ同じことをいっています。
また、お経を全部把握しているわけではありませんが、その他のお経でも同様のことが説かれているようであり、つまり、仏教に貫かれている一つの真理と考えることができるようです。
で、その「諸法実相」とか「性相空寂」というのはどういうことかというと、全ての現象は因と縁の和合で生じており、あらゆる現象は、その因や縁に相応しく展開しているのであって、これに漏れるものは無い、ということです。つまり、目の前の現象を変えるには、因や縁となる要因を探り、それを変化させれば現象も変わる、ということです。
んー、分かったような分からないような感じがしますが、これを先師の方々は、非常に身近で分かりやすい言葉に言い換えてくださっています。それは、
『自分が変われば相手が変わる』
ということです。
このキーワードでネットを検索すると、実にいろいろなサイトがヒットしますが、その中で、以下ようなことを書いているサイトがいくつかありました。
『人生八変化』
自分が変われば、相手が変わる
相手が変われば、心が変わる
心が変われば、言葉が変わる
言葉が変われば、態度が変わる
態度が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、運が変わる
運が変われば、人生が変わる
なるほど、つまり、自分が変われば人生が変わる、ということですね。だいぶ分かりやすくなった「感じ」がします。
さて、それでは、自分が変わるというのは、どのように変わることなのでしょうか?また、「変わる」という言い方より、「変える」という言い方のほうが積極的だと思いますが、いずれにしても、「どのように変われば(変えれば)いいのか」ということまで言及しているサイトは見つかりませんでした。このままでは、善い方に変われば善くなり、悪い方に変われば悪くなるという「からくり」を示しているにしか過ぎません。
もちろん、善い方に変わればいいに越したことはなく、それを明らかにしたいと思いますが、要するに、小生のこのサイトで何度も紹介している通り、「己の仏性に目覚める」ということが「変わる」ということの究極目標であり、そのことを含めてこと細かに説いているのが本来の仏教です。
仏性に目覚めるとは、つまり、自分の尊さ、命の尊さを自覚するということです。そして、本当に自分の尊さを自覚できた人は、他人の尊さにも気付けるというのです。ここがたんなる「自惚れ」とは大きく違うところです。「あの人はダメな人だ」と思ったり、平気で人を(自分自身も含めて)傷付けたりしているとするならば、まだまだ自分の尊さを自覚できていないのだということです。
仏性とは「絶対慈悲」の心であり、本来誰しも備えている心です。それに気付きさえすればいいのだよと、仏教では説いています。
非常に明快で簡単ですが、実践するというのがムズカシイのです。「おはよう」の挨拶、「ありがとう」のお礼、「ごめんなさい」の反省の言動は、いいと分かっていても、なんのてらいもなく口にすることが億劫だったりするわけです。特に家族に対しては。
しかし、より高い境地に上がろうとすることは、多少なりとも苦労が必要なわけで、その苦労は誰しも通らなければならないことも事実です。一歩踏み出す勇気と努力を養いたいと思います。
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