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2,500年前、お釈迦様が悟られたのは、あらゆるものは仏の智慧を具え光り輝いている、ということでありました。そして、そのことに気付いて生きていけばよいのだよ、と。

人にやさしく自分にもやさしく

   

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先祖供養3

先祖供養について、今回はいよいよ最終回にしたい。

これまでのところをもう一度おさらいすると、

1.自分の先祖は、ある程度までさかのぼると他人の先祖でもある。

2.供養とは、感謝の念で先祖のためになにか供えるということと同時に、自分自身の資質を養う行為である。

ということを明らかにした。

さて、では感謝の念というのはどういうことか。何に対して感謝の念を抱くのかということになるが、これは、私自身が生まれてきたこと、私に生命を与えて頂けたことに対する感謝にほかならない。

私に生命を与えてくれたのは、直接的には両親であり、そのまた両親であり、つまるところは私の先祖ということになる。

従って、もし「生まれてこなければよかった」というように、私の生命に感謝できないということは、私の両親を否定し、私の先祖を否定し、他人の先祖をも否定することになる。これは、他人をも否定することにつながるわけである。つまり、自分を否定・卑下するということは、あらゆる存在を否定・卑下することと同じ行為になってしまうのである。

こう考えると、自分を否定し、苦しんでいる人には、先祖供養という行為は成立しない、できっこないのである。本当の意味での先祖供養とは、自分の命に感謝できる人のみが為し得ることになるわけだが、悲観することはない。

順序が逆になるが、初めは形の上でも「まずは先祖に感謝してみよう。感謝するような行動をしてみよう」と思って、そのような行為を少しずつでもつづけていけば、その結果、自分の命にも感謝できるようになる。

そうなれば、おのずと他人の命の尊さも知ることができ、生まれてきた子どもの命の尊さも実感することができるのである。

命の尊さに目覚める・・・これが先祖供養を行う一つの目的・結論である。命の尊さに目覚めることと、先祖供養を行うことは互いに循環し、スパイラルアップするものである。

さらに、命の尊さに目覚めた人は、より多くの人に目覚めて欲しいという新しい使命感が生じ、先祖供養の尊い意義・大切さをまだ知らない他人にも伝えたくなる。

また、自分自身がもし死んでも、多くの人が命の尊さに目覚める世の中になって欲しいと願い、またそのような心が培われるような境遇に生まれてきたいと思えるようになる。これはつまり、未来供養ということである。

以上をまとめると次のようになる。

1.自分の先祖は、ある程度までさかのぼると他人の先祖でもある。

2.供養とは、感謝の念で先祖のためになにか供えるということと同時に、自分自身の資質を養う行為である。

3.先祖供養とは、あらゆる命の尊さに目覚める行為である。

4.先祖供養を広く推奨したくなる。

5.先祖供養とは、自分が死んだあとの未来を供養する行為でもある。

そして、先祖供養の方法であるが、以上の意義が踏まえられれば、やり方というのはどのような方法でもよいのであって、目安として、各宗派での儀式やらお墓の建て方やらがあるわけであり、ご自分の家の菩提寺でも神道でもキリスト教でも、それぞれにおいて整えられている方法に則り、執り行えばよい。

仏教的な先祖供養の意義ということに重点をおき、3回に渡って書き綴ってみたがいかがでしたしょうか。

命の尊さに目覚める行為という点では、その方法は何も先祖供養に限ったことではない。命の尊さに目覚める本来の仏教的な行為・方法について、またいろいろと研鑽し、ご報告・ご紹介していきたいと思っています。

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ちょっと一息

飲み会&残業続きで、なかなか集中してブログが書けない;;

先祖供養の続き、もうしばらくお待ちください。m(_ _)m

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先祖供養2

先祖供養その2。

前回は、自分の先祖が何代前で何人になるかという観点から、結局、自分の先祖を供養するということは、他人の先祖も供養しているという現実に迫った。

さて、テレビ番組などでは、正しい供養の仕方ということがいろいろ紹介されたりするが、その前に「供養」とはそもそもどういうことなのかということを吟味したい。

#・・・今回もキチンとまとめきれないカンジなので、その3までひっぱります(^^;

供養の供は、元々「供給」の供である。一般には「きょうきゅう」と読むが、仏教では「くきゅう」と読む。意味あいとしては、さまざまな品物を供える、与える、提供するということで、一般的な「きょうきゅう」と似ているが、動機が異なる。

「きょうきゅう」というのは、いわばビジネスとして使命的、義務的に行なうものであるのに対して、「くきゅう」は、供えたい、与えたい、提供したいというやむにやまれぬ心境から生じる、つまり、感謝の念から出てくる自然な行為である。

また、供養の養は、「資養(しよう)」の養であり、この資養も仏教の言葉で、「(自分の)資質を養う」という意味がある。

つまり、供養とは、感謝の念を元とし、品物などを与えたいという心に加え、そのことにより、自分自身の資質を養う行為、ということになるのである。

したがって、先祖の供養というのは、あらゆる人の先祖に感謝し、自分の心と他人の心を同時に養うこと、ということができる。

これで結論付けられたように思われるかもしれないが、まだまだ! ようやく先祖供養の意義の半分が明らかになったに過ぎない。

次回、残りの半分について明確化させて頂こう。

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先祖供養1

今日は先祖供養について考察してみたい。

#・・・途中まで書いていたら、かなり長くなりそうなことに気付きました。
#2回に分けて書きたいと思います(^^;

細木数子さんの番組などでも先祖供養について触れられることがあり、私も興味をもってよく見させて頂いている。なるほどなーと思わせられることもあるが、仏教的には、もっと深い、尊い意義があるように思われる。

さて、前提として、自分の先祖は何代さかのぼると何人になるかということを考えてみよう。

これは単純計算で求めることができる。たとえば、10代さかのぼった場合、1代、2代、3代・・・9代目の先祖と10代目の先祖の数の総和を求めればいいわけだが、計算するとざっと2,046人になる。同様に20代さかのぼった場合は、2,097,150人となり、30代さかのぼった場合は、なんと20億人を超えてしまう。

30代前の先祖というのは何年前ぐらいになるかというと、1代で平均30年と考えた場合、およそ900年前になる。900年前というと、西暦1100年頃ということになるが、この年代は、日本でいうと平安時代の終わり頃、源氏や平氏が力を付けつつある時代である。

さて、ここでヘンなことに気付かれたであろう。

西暦1100年頃、平安時代の終わり頃といったら、日本の人口は一千万人にも満たず、世界の人口ですら3億人程度だそうである。それなのに、現代の人、一人一人に対して、30代さかのぼるとそれぞれ20億人以上の先祖がいらっしゃるという計算になるのだ。

これはつまり何を意味しているのかといえば、先祖をどんどんたどっていくと、現代では全くアカの他人のAさんとBさんの先祖が、何代か前で必ず同一人物にいきあたる、ということである。

要するに「私の先祖はみんなの先祖」ということになるのだ。

つまり、自分の先祖を供養するということは、同時にアカの他人の先祖も供養していることになる。先祖供養という行為は、自分のためだけでなく、知らず知らずのうちに人のためにもなる行為でもあるわけだ。

さて、以上のことだけでも、先祖供養というのは奧が深いということがお分かり頂けると思うが、このあとさらにいろいろな意義がある。

今回はこれまで。次回、さらに掘り下げた部分に触れてみたい。

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降級TT

甲子園の決勝、盛り上がりましたねぇ。

決勝戦では、37年ぶりの引分け再試合ですか?どっちにも勝たせてあげたい気分でしたが、勝負よりも内容がよかった。勝ち負け以上に感動できた試合っていうのも、野球だけでなく、プロやいろんなスポーツを通じても最近なかった気がしますね。

斉藤、田中の両投手は、やっぱプロにいくのかな。プロ野球も盛り上げて欲しいっすね。

さて。

小生の将棋倶楽部24でのレーティング、ついに6級から7級に落ちてしまいましたTT

最近オンラインゲームにかまけてしまって、久しぶりに指したら案の定、すっかり感覚が鈍ってしまっておりまする。

いやぁ、やっぱ毎日詰め将棋で特訓して、一日一局は指さないとイカンなぁ^^;

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山より大きな猪は出ない

「山より大きな猪は出ない」という諺がある。

これの元は仏教が教えるところであるが、表面的には、「自分に出てくるどのような試練も、すべて自分が乗り越えられる程度の試練を仏さまはお出しになるのだヨ」ということだが、さらに深い意味があるようだ。

まず、目の前に出てきた問題から逃げずに、一つ一つ取り組んで解決していけば、それだけ自分が成長できるワケだ。

ところが、問題を解決せずに逃げていると、また別の問題が出てきて、それからもまた逃げるとしたら、また別の問題が出てくるというように、自分はまったく成長できないのに問題ばかりが山積みになってしまう。

そうなると、肉体的・精神的に破綻をきたすような状況に陥ってしまい、最悪の事態を招いてしまうことも起こりえる(殺人やら自殺やら・・)。

最悪とまではいかずとも、さまざまな事態を招く状況を作る原因はどこにあるかといえば、問題に原因があるのでも他人に原因があるのでもなく、キビシイようだが、結局のところ、問題をほったらかしにしている自分に一切の責任があるのだ、ということになる。

「山より大きな猪は出ない」という諺には、どうやら上記のような意味も暗に含まれているようである。

ならば、どうすればよいか。

1.とにかく問題に立ち向かって努力し、解決する。

しかし、手段を間違うと、問題が大きくなる可能性もある。この場合は間違っていたと気付く(認める)ことが大事であり、それによって、新たな手段を見出せることもある。

それでもムズカシそうだったら・・・

2.経験豊かな他人に相談し、アドバイスを仰ぎ、解決する。

経験豊かな他人が近くにいなかったら、著書やネットなどからよさそうな情報を集めることも有効な手段である。つまりこの場合、著書やネットが「経験豊かな他人」に相当するワケである。

いずれにしても「山より大きな猪は出ない」わけだから、自分に出てくる問題で解決できない問題は決して出てこないということを肝に銘じることが大事であろう。

そして「なぜ自分ばかりがこんな目に遭うんだ?」と思っては決してならない、ということである。

こんなことを、人生の一つの道しるべにして生きていきたいものである。

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WCRP

短い夏休みが終わり、田舎から復帰しました。

一年ぶりの田舎、山形は、甲子園にて日大山形高校が初のベスト8進出ということで盛り上がっておりました。昨日、早稲田実業に惜しくも負けてしまいましたが、最後まで全力でプレーされた姿は美しさすら感じましたねぇ。ま、ひいき目はゴカンベンを;

閑話休題。

WCRPというのをご存知の方はどれだけいらっしゃるでしょう?

World Conference of Religions for Peaceの略称で、日本では世界宗教者平和会議と呼称されています。Religions for peace、もしくは世界宗教者平和会議日本委員会のサイトをご覧になってみてください。

国と宗教の壁を越え、世界平和実現に向けて宗教者の立場で対話をしようという試みから始まり、第1回会議が開催されたのは1970年10月、京都において、各国の代表的な宗教者(カトリック、イスラーム、ユダヤ、仏教、神道、ヒンドゥー、ゾロアスター等々)約300名が集いました。

当時、開催される前の世論の反応は、異なる宗教者が一同に介するなど不可能であるとか、正気の沙汰とは思えない等々、否定的なものばかりだったそうですが、それら多くの批判を押し退け、実現されたわけです。

その後、第2回以後の会議は、約5年間隔で、ベルギー、アメリカ、ケニア、オーストラリア、イタリア、ヨルダンで開催され、特に第6回のイタリア(ローマ)での会議においては、会の念願であったローマ法王にも出席頂くことができたということです。

そして今年、第8回の世界会議が、再び京都の国立京都国際会館において、今月の26~29日の4日間に渡って開催されます。さらに今年は、本会議の前段として、21~25日にWCRP青年世界大会がもたれるとのことで、合わせて2,000名に及ぶ出席者が予定されているとのこと。

どんな議題で、どのように会議が進行するのかとても興味がありますし、世界平和実現に向けて、どのような策が決議されるのか、会議後の動きにも注目したいと思います。

しかしながら、このように異教者同士が対話しようという動きがあっても、一方では、あいかわらず他宗教批判、排他独善主義、ドグマ(教条)主義、テロの思想や団体が存在するのも今の世の中であり、こういう問題にまでメスが入るのには、まだ時間がかかるのでしょうか?こういう問題も、WCRPでは解決策が論じられるのでしょうか?期待したいと思います。

それにしても、こんな大きな世界会議が日本で開催されるということを、少なくとも日本国内のメディアはもっと大々的に取り上げてもよさそうなもんですけど?やっぱどうも排他独善主義の勢力が強いのかなぁ、などと思ってしまいます。どうなんですかね、メディア関係者の皆さん?

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小泉首相の靖国神社参拝について

終戦記念日である8月15日に、小泉首相が靖国神社を参拝した。

小泉首相は「いつ参拝しても批判されるのだから、8/15に参拝することが適切だと判断した」とおっしゃられた。

まず、ワタシは笑った。はぁ?なにそれってカンジ!

あのですね、別に8月15日に靖国神社を参拝すること、そのものについてどうのこうのというのは日本国内においてはほとんど問題なしですよ。日本国内においては。(問題があるとすれば、国政の最高責任者である首相が、公の場において、一宗教団体である「靖国神社」を公の立場で参拝するということが、信教の自由を定めている日本国憲法に違反しているという見方ができるということ。)

小泉首相が靖国神社を参拝されることの真意を伺うと、純粋に、戦没者に対する慰霊と、二度と戦争をしないということと、平和を祈願する決意をこめて参拝した、ということ、そのこと自体は崇高な理念であると思う。

だから、そのことだけを訴えつつ参拝されるのであれば、それほど大きな問題にならなかったんじゃないですか?まぁ実際には、靖国神社の参拝だけでは、戦没者の完全なる慰霊という「具体的な」行為にはならないと思いますけどね。

根本的に憲法違反であるという問題が有り、なおかつ、中国や韓国の反日感情が湧き上がっている中で、結果的にそれらの感情を逆撫でし、かつ、「いつ参拝しても批判される」という理由だけで8月15日に参拝するというのは、「たんなる意固地?」って思ってしまうんですけど!

小泉首相は、靖国神社だけでなく、それ以外の戦没者の慰霊碑にも参拝すると表明されており、そのことは一般的に評価できると思われるが、慰霊参拝の真意が、諸外国に正しく伝わるだろうか?

そう、首相の靖国参拝において数ある問題のなかで一番大きな問題は、外交の摩擦である。今回の小泉首相の行動には、外交摩擦をなくそうというねらいが含まれていたのかどうか。真剣にお考えになられていたのかどうか?

そのことをまずは明らかにして頂きたいと考えます。

#明日から夏休み。ブログも休み;8/19には復帰予定です。

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終戦記念日

明日8月15日は、61回目の終戦記念日である。

ところで、この「終戦」という表現はくせものである。たしかに日本は、1945年8月15日に、第二次世界大戦に全面降伏し、その後、永久に戦争を放棄するという条文を盛り込んだ憲法を打ち出したことによって、8月15日を終戦記念日と定めた。

しかし、中国や韓国の、いまなお続く反日感情や、北朝鮮やイスラム圏の問題などを鑑みると、「終戦」というのは、日本国のみの自己満足でしかないのではという感想も持たれる。

従って、たんに「終戦」の記念日ということよりむしろ、平和を築く記念日という意義に重きをおくべきと考える。

そして、この8月15日を中心に、各地で戦没者慰霊のイベントが執り行われるが、この「戦没者」という表現がまた微妙だ。

戦没者というと、戦争に出向いて戦地で殉死された大勢の兵士を暗に指しているが、戦争によって命を落としたのは、日本の兵士だけでなく、相手国の兵士も大勢おり、また、お互いの攻撃によって、直接戦いに加わっているわけでもない、実際には兵士の人数よりはるかに多い一般市民が、その尊い命を落としているのである。

つまり、「戦没者」というあいまいな表現ではなく、より的確に「戦争犠牲者」という表現を一般化すべきと考える。

小泉首相が靖国神社を参拝されるのは、おそらく「戦没者」の慰霊という目的が一つにあるのだと想像できるが、「戦争犠牲者」の慰霊という意味では、靖国神社の参拝だけでは不十分だといえると思う。(もっとも、日本国の首相が、A級戦犯が祀られている神社を参拝すること自体さまざまな問題が取り沙汰されているわけだが。)

いかなる理由があろうとも、何の罪もない人の命が、人の手によって奪われることは二度とあってはならない。その決意を抱かせられるのは、過去に戦争が行われ、大勢の人の犠牲があったからであることは皮肉かつ心が痛むことではあるけれども、決して忘れてはならないことである。

犠牲になられた大勢の人のためにも、過去の過ちを二度と繰り返さないという決意、平和な世界を築いていくのだという決意を再確認する日という意味あいを深く心におき、8月15日を迎えたい。

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開拓者

久しぶりにNHK杯将棋トーナメントを見ることができた。

カミさんと娘が昨日一足先に帰省し、小生は、8/15の終戦記念日のイベント(こちらの話題は後日触れたい)が終わるまでは帰れないので、昨日から一人暮らし;

ゆったりできるなぁと思える反面、賑やかさがなくなってちょっと寂しい気持ちにもなったりして。

そんな中、日曜日に休みがとれたのも久しぶりということもあり、ビール片手にまったりとNHK杯を観戦できたという次第。

今日は、渡辺明竜王と松尾歩六段の2回戦の対局。六段が先手、竜王は後手で、角換わり腰掛け銀の戦形となった。解説の所司七段が、過去のデータでは、角換わりの場合、圧倒的に先手の勝率が高いと申されていた。

ワタシなどの素人考えでは、定跡化もなされていて、先後の勝率もハッキリしている戦形が、なぜいまだになくならずに指され続けるのだろうかということ。

特に、相矢倉や相掛かりなどの、先手と後手の形が全く同じになるような将棋は非常に苦手で、それがワタシが居飛車を指さなくなった理由の一つでもある。(ま、ワタシの素人考えはさておいて・・^^;。)

しかし竜王は、同形ではあえて勝率が悪いとされる後手で、途中危ないと思える場面もあったが、結果は勝ち。

ご自身の研究の裏付けがあるのだろうとは思うが、単純にすごいなぁと思った。とはいっても、相居飛車ということにかぎらず、やはり定跡を打ち破る研究は常に欠かせないだろうし、プロならばもちろんのことといってしまえばそれまでか。

そういった意味では、将棋のプロにかぎらず、開拓者の心構えというのは、どんな立場においても大事なことだなぁとしみじみ感じさせられた。

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「実生活に生かせる仏教の追求」をメインテーマとしていますが、趣味の将棋や、その他、時事に絡んだ雑感などなど、気が向いたときに綴っております。どうぞ、おヒマなときに覗いてみてください。
2019年12月より山形県鶴岡市在住。
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