今日、ある人たちが我が家を訪ねてきた。
見知らぬ方だったので玄関先で出迎えたのだが、お二人でいらっしゃったその方たちのお一人がお話を始められた。
「私たちはエホバの証人のものです。突然伺いましてすみませんが、聖書をお読みになられたことはありますか?」
ほほう、布教にこられたのだなと思い、無礙に門前払いする理由もないので、てきとうに相槌を打ちながら聞いていたのだが、その方がおしゃるには、聖書では、魂というものは生きている肉体にのみ存在するもので、死んだら魂もなくなる。
だから生きている間に精一杯いいことをしなければならないと書かれてあります、というようなことだった。
そのあとものらりくらり話を聞き、最後にその方たちは、「お話を聞いて頂いてありがとうございました。」とおっしゃられて、パンフレットを1枚置いてお帰りになられた。
さて、話をきいているときは特に肯定も否定もせず「はあ、そうですか」とか言いながら聞き流していたのだが・・・。
魂とはそもそもなにか?
魂が生きた肉体に有ると、なぜいいことをしなければならないのか?
死ねば魂は無くなると、どうして断言できるのか?
これらの疑問をぶつけてみたいとも思ったが、まーいいやと思ってしまい口をつぐんだ。
そのへんが私自身の優柔不断な性格であり、よくいえばおおらかなところでもあると自己分析している。
ま、私の性格は置いておいて、たしかに、仏教では輪廻転生(生まれ変わり)を説いているお経もある。
ただ、お釈迦様は、魂というものが存在するとも存在しないとも、断言されてはおられない。ただ「無記である」とおっしゃっておられる。
無記とは、どちらも証明ができないことなので無意味である、ということである。
しかし、仮に魂というものが存在して、肉体が亡くなっても魂は永遠に存在すると思ったいたほうが、むしろそのほうが自然に、永遠に残る魂を汚す行ないをしてはならないという感情が芽生えるのではないだろうか。
魂の議論は、おそらく永久に解決しない命題であろう。
だから、そんな議論に無駄な時間を費やさず、お釈迦様が悟られた、苦を乗り越えて、ほんとうの人間らしい生き方に目覚め、それを現実の生活に生かしてくことが大事なことであると改めて認識させて頂くものである。
そんな意味では、訪ねてこられたエホバの証人のお二人にはお礼を言いたい気持である。
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