今日もいい話を聞いたのでメモっておきます。
「魚は水を知り尽くしているがごとく泳ぐ。鳥は空を知り尽くしているがごとく飛ぶ。しかし、完全に知り尽くしているわけではない。なぜなら、酸欠で死んでしまう魚もおり、つむじ風に巻き込まれ地面に墜落してしまう鳥もいるからだ。」
これを人間にあてはめると、世間を知り尽くしている人間はいないということを物語っている。誰もが不完全でありながら生きているということになる。
霊性に目覚めることをスピリチュアリズムというようである。さらに、神性に目覚めることをネオスピリチュアリズムというようである。ひっくるめて、仏教では、仏性に目覚めることを悟りという。
以前にも書いたように、お釈迦さまが説いた「人生は苦である。苦が常態である。」ということも一つの真実であり、たとえ「悟った」としても、さまざまな苦と直面しながら生きていかなければならないのが人生である。
ようするに、自分の内なる霊性や神性や仏性に目覚めればそれで完了というのではなく、ようやく、正しくもしくは楽に生きようとするスタート地点に立ったにすぎないということがいえる。
このように考えると、「悟り」というものの中には、「自分はどこまでも不完全であるということに気付く」という意味も含まれているような気がする。
不完全であることの自覚ができてこそ向上心が芽生え、まさに一段ずつ階段を登るがごとく、成長し続ける。これがそもそもの人間らしい生き方なのだとはいえないだろうか。
仏性という、自分の尊さに目覚め、認めることはとても大事なことだが、同じ程度に、自分の不完全さを認めることも大事なことであるかもしれない。
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