「師の跡を求めず、師の求めたるところを求めよ」という言葉がある。これは儒教の開祖、孔子の言葉である。誰にでも尊敬する先生や先輩、先祖や親が居ると思う。「あの人のようになりたい」「あの人のマネをしよう」と思って実際に行い、ある程度自分の身についてきたら、そこからさらに研鑽を積み、いよいよ自分オリジナルのものを作り上げていくということになろう。
ところで、「師の求めたるところ」というのは何であろうか。もちろん、分野を分けたら、師の人数分だけ、求めたるものがあることになってしまうが、「師」と呼ばれるような人たちが根本的、本質的に求めようとするものという意味で突き詰めていくと、一点に収束していくのではないだろうか。
これの一つの回答として、釈尊の言葉「自灯明・法灯明」がある。
この「自灯明・法灯明」は、いわば釈尊の遺言ともいわれている言葉であるが、釈尊がいよいよ涅槃に入られんとするとき、うろたえる弟子達が切羽詰って釈尊に「もし釈尊がお亡くなりになるようなことがあったら、私共はこれから何を頼りにして生きていけばよいのでしょうか。」と質問し、それに対し釈尊が「これからは、自分の進むべき道は、自分で判断すべきである。他人にゆだね、他人のせいにしてはならない。そして、自分が判断するときは、法(真理)に照らし、法にのっとって行なわなければならない。あやふやなもの、よこしまなものに頼ってはならない。」と答えられた。これがいわゆる「自灯明・法灯明」である。
つまり、師が求めたるところをギリギリまで突き詰めていくと、法(真理)に行き当たると思われ、おおげさにいえば人類共通の「求めたるところ」ということになろうか。
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