本年3月11日に発生した巨大地震による東日本大震災により、保険会社から極めて多額の保険金が支払われ、小さい保険会社は倒産してしまったところもあるという実態は広く知られるところであります。
ところで、話がだいぶ飛躍しますが、生命保険という表現はあっても、命保険という表現は聞いたことがありません。また、「生命が宿る」、「命が宿る」という表現は両方ありますが、どちらかというと「命が宿る」という表現のほうが多用され、しっくりくる感じがします。
そんなことをぼんやり思うなか、生命と命というのは、もしかしたら大きく意味が違うのではないかと深く考えるようになり、仏教を学ばせて頂いている中で、ついに(?)「生命」と「命」の違いに気付きました。
仏教では、その究極的な考え方の一つとして「生かされている」ということが頻繁に説かれます。私たちは、自分の努力で生きているように考えがちですが、よーく考えると、自分一人の努力や意識のみで生きている人は一人もいないことが簡単に分かります。
誰しも(父母と会ったことが無い人でも)父が一人、母が一人必ず存在し、母が産んでくださった事実は否定できません。自分の努力や意識のみで生まれてきた人は一人もいません。
心臓や呼吸は、眠っていても止まりませんし、眠っていなくても無意識のうちに規則正しく(不整脈などの病気は別として)動いています。そもそも、なぜ眠くなるのかさえ、今の医学では厳密には分かっていないということです。
そして、自分が死ぬ時期さえも予測することは不可能です。誰しも必ずいつか死にます。もちろん、自殺は論外ですが、逆に、自殺しようとして線路に寝そべっていても、なんらかのトラブルで列車が走らなくなり、結局死にそこなった、などという話も聞いたことがありますが、まさしく何かによって「生かされている」ことの一例といえなくないと思います。
少々話が発散ぎみになりましたが、要するに、「生かされる」ということは「死なされる」ということと同じであり、生命には限りがあるということが断言できます。
では、その「生かしたり」、「死なせたり」する大本の存在は、一体何なのかという命題が生じます。それを仏教では「仏」といいます。
そうすると、「仏」は死なないのか?という疑問も当然生じてきますが、仏教の結論は「死なない」ということです。
つまり、死なない仏が具えている存在のことを「命」といい、これは宇宙にただ一つであり、宇宙全体といってもいいものだと思います。根本的なこの「命」は、まさしく永久不滅の存在です。そして、仏によって、生身の体に命が吹き込まれ、その生身の体と命をひっくるめて「生命」というのだと考えられます。そして、一度吹き込まれた命は、一定期間が過ぎると(これを「寿命」という)、仏によって抜き取られる、ということがいえそうです。
じゃあ、一体なぜ仏さんは、いちいちそんなことをするのかという疑問に発展するわけですが、その疑問の先にこそ仏教=仏の教えがあります。(仏教を一言でいえば、命を宿している間のよりよい生き方を示した教え、ということになりそうですが、今回のテーマからは外れるので言及しません。)
まとめると、「命」とは、宇宙にただ一つしかなく、宇宙全体に充満しているものであり、不滅なもの。「生命」とは、ある一定期間、命が宿った物体(生体)のこと、ということになりそうです。もしかすると、「命」そのもののことを、仏教では「仏」、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどでは「主」とか「神」といっているのかもしれません。
仏教を学んでいる方にもそうでない方にも共感していただけそうな気がしていますが、そういえば(わざとらしく;)、今日12月8日は、お釈迦さまが悟りを開いた日(成道会)であります。お釈迦さまの悟りに一歩でも近づけるよう、新たな精進をお誓いしたいと思います。
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[12回]
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COMMENT
ありがとうございます
「命」とは、宇宙にただ一つしかなく、宇宙全体に充満しているもので生命とは別のものであるという事は解りました。
私はここで言う「命」が「仏」であると今まで思っておりました。
次回はその違いを教えていただくとありがたいです。
合掌
コメント多謝