3月11日、昨年の同日発生した東日本大震災から丸1年が経ちました。そして、ご遺族にとりましては一周忌の日でもあり、各地で慰霊式が営まれました。
私が住む宮城県においても、特に沿岸部において、津波被害の甚大であった箇所に慰霊碑などが建立され、いろいろな箇所で盛大かつ厳粛に慰霊の法要が執り行なわれました。
以下の写真は、名取市閖上(ゆりあげ)にある日和山(ひよりやま、標高6.3メートル)の頂上に立てられた慰霊の墓標です。
伝統仏教では、特に亡くなられた御霊に対する慰霊・鎮魂の供養がなされることは周知のとおりでありますが、本来の仏教では「存亡斉しく導く(そんもうひとしくみちびく)」と教えられており、すなわち存(生きているもの、現世で肉体に魂を宿しているもの)も、亡(死んだもの、現世の肉体から魂が離れたもの)も、平等に成仏の道に入らしめる、と説いています。
いずれ肉体が滅びるならば、肉体がある間は、他人の迷惑など無関係に、好き勝手、やりたい放題のことをすればいいという考え方も出てきますが、それはとんでもない間違いです。
以前の記事にも書かせていただきましたが、命は永遠であり、肉体は消滅しても、魂は永遠に存在しますから、次の世の新たな肉体にいずれ宿るのだということを考えたら、最低限、他の迷惑になるようなことはできなくなります。
つまり、他に安心してもらったり、喜んでもらったりする行ないをしなければならないという思いが湧いてくることが自然ですし、当然、亡くなった方にも安心してもらい、喜んでもらう生き方をしようという、いわゆる心の復興こそが先決であることになります。
災害によって非業の死に遭遇した人も、畳の上で大勢の肉親に看取られた人も、永遠の命というものさしで見れば、等しく天寿を全うし、大往生を遂げた人たちであります。
全ての亡くなられた方々に対する感謝の誠を捧げ、まだ肉体を遺された私たちが、存亡斉しく導く仏さまの願いに従って、形の上だけでなく、心の復興を果たし、震災以前の状態より、さらに進化した状態を築き上げなければならないと思います。
[2回]
PR
COMMENT