大変ご無沙汰しておりました。ちょうど三カ月ぶりの更新です。東日本大震災から1年4カ月が経過し、被災地を開催地とする各種の慰霊や復興イベントが予定され、その準備や対応で目の回る忙しさでありますが、全国あるいは世界中の方々から、復興に対して心を寄せてくださっているという実感もあります。
さて、そんな中、局地的な復興はもちろん、地球全体の、意識レベルをも含めた進歩・向上を恒久的に進めていくためには、人材育成こそが万人の終身計画であるということを深く学ばせていただく機会がありました。人材育成ということの中には、当然ながら自分自身も含まれている、ということもつくづく学ばせていただきました。
その中で、昭和40年代に著された、仏教関係のあるエッセイ的な著書の一節に、とても印象的な内容がありましたので、原文のまま記載させていただきます。
『ハダに触れた教育ということで、いま一つ思いつくことは盤珪(ばんけい)禅師のことであります。禅師の弟子の中に盗癖のある僧がいるので、あるとき弟子たちが「盗癖をもつ僧が、われわれの中にいたのではたまらないから、それを山から追放すべきである。もし追放しないなら、われわれのほうで山から出ていくよりしかたがありません」と弟子たちが、禅師に迫ったのであります。そのとき、禅師は「お前たちは、まじめだから、どこへ行っても良い師匠につくことができるだろうが、この男は、私がめんどうをみなかったら、いったいだれがみるというのか、お前たちこそ他所へ行くところがあるのだから遠慮なく出ていきなさい」と答えられたというのであります。教育、教育と盛んにいいはいたしますが、最近のそれには、”教”はあっても”育”がないとよくいわれます。おこがましい表現ですが、宗教者というものは、人間再教育の教師であるといわれるくらいなのですから、どうか、育てることに情熱を持つ人になっていただきたいものであります。』 盤珪禅師は、江戸時代前期の臨済宗のお坊さんで、人柄はたいへんやさしく、大名から庶民にいたるまで広く仏の教えを説かれた人であります。
昨今も相変わらず、社会的地位の高い人や、著名な人であっても、愚言や愚行がメディアに取り沙汰され、他人ごとながら情けない思いにかられたりもします。しかし、仏教には十界互具という教えがあり、何ぴとたりとも、地獄(怒り)、餓鬼(貪り)、畜生(本能むきだし)、修羅(争い)の心を具えており、いわゆるそれらの悪い心は消滅させることはできないのだと説かれています。
無くすことができないのだとしたら、それらの心が簡単に表面化しないよう、うまくコントロールするしか方法はないわけですが、幼児教育、情操教育等は、まさにそのコントロール法を自得させる教育といえると思います。では、大人になったらもう遅いのかというと、決してそんなことはないはずです。理性の発達した大人こそ、もし幼少期にそうした教育をちゃんと受けられなかったと自覚できれば、悪い習慣を冷静に見直して、良い習慣づくりに取り組むこともできると思います。
結局、教育とは、知識を与えることだけでなく、心の教育こそが先決であり、重要であるということになります。そもそも、仏教では、全ての人はもともと仏の性質、すなわち仏性を具えていると説いており、そのことに自覚しさえすればよいとも説いていますし、教育を英語では「education」といい、直訳すると「引き出す」という意味からも、元々持っている仏性を引き出すこと、というふうにも受けとれます。
自分自身をも含めた、仏性を引き出す関わりを常に意識してまいりたいと思います。
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