仏教は、お釈迦さまが悟りを開かれたその瞬間が始まりだといわれますが、では何故、お釈迦さまは悟りを開くことができたのでしょうか。
お釈迦さまは、今から約2,500年前(紀元前500年頃)、北インド(現在のネパール)のカピラバストという国の王子として生まれました。国王のご子息でありますので、何不自由ない境遇の中ですくすく成長されたわけですが、まだ幼少の頃のある日、耕された畑の土の中から出てきたミミズを、舞い降りてきた小鳥がついばんで食べるという光景に出くわしたとき「一方が生きるために、もう一方の命が奪われる。なんとむごいことだろう」と真剣に悩まれたという話が仏典に残っています。
ごく普通の人なら、小鳥がミミズを食べる光景を見てショックを受けて、思い悩んだりするようなことはないでしょう。つまり、ひと言でいうならば、お釈迦さまは普通の人とはかけ離れた、とてつもなく尊い感性を生まれつき持っていた特別な人だったのだ、ということがいえそうです。
ではなぜ、お釈迦さまはそういう感性を持って生まれてこられたのかということになりますが、いろいろな仏典やお経をひもとくと、お釈迦さまの前世に大きく起因していそうだということが分かります。→
<ジャータカ物語>ジャータカ物語は、お釈迦さまが前世ウサギだったとき、行き倒れになった老人を救うために、自分の身を火で焼いて差し出したとか、ある国の王子だったとき、飢えで苦しむトラの親子のために自分の身体をトラに食べさせたなどなど、お釈迦さまの前世をお釈迦さま自身が説いているという内容です。
つまり、お釈迦さまは果てしない生まれ変わりの過去世において、他を救うために尊い犠牲を数多く払ってきたその善い報いとして、無上の悟りを得る身になることができたというわけです。
仏教では、他を救うとともに自分が向上するという、そのことが仏の(宇宙の)意思であり、はたらきであり、誰にでも具わっている性質であるということを説いています。要は、果てしない過去からすでにお釈迦さまは仏の意思・はたらきを悟っておられたということになります。
お釈迦さまの前世をそのままマネすることはできませんが、万分の一でも見習い、尊い行ないができるよう常々心がけたいものです。
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