10月13日は
日蓮が亡くなられた日である。この日の前日となる10月12日をお逮夜(おたいや)といい、まとい、万灯、笛、鐘、太鼓などの行列で、日蓮宗系のお寺の境内などを中心に練り歩き、日蓮への供養を捧げる「
お会式(おえしき)」という行事が執り行われる。
さて、この日蓮という人物、たいへん血気盛ん、かつ人並み外れた強固な信念を持った人だったようである。代表的な言葉に、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言い放ったという、いわゆる
四箇格言がある。
戦乱真っ只中の鎌倉時代にこんなことを大声で口に出したらどうなるだろうか。当然ながら日蓮は幕府に捕らえられ、処刑されそうになった。いや、実際、処刑場に引き連れられ、首を刀で切られそうになったのだが、まさに首を切られようとするその瞬間、稲妻のような光が輝いたと思ったら、刀がバラバラに砕け折れてしまったのだそうだ。もちろん、真偽は定かではないが、今日までそのように言い伝えられている。
日蓮を処刑したら何か崇りがあるのではと恐れた幕府は、日蓮を処刑することは取りやめ、佐渡へ流刑することになったのである。
その他にも日蓮は、数多くの弾圧や迫害を受けているのだが、ことごとくそれらを乗り越え、さらにそれは妙法蓮華経というお経に書かれているとおりであったことに気付き、益々、法華経によって世を救うのだという決意を固めたそうである。
それほどすさまじい生涯を送った日蓮であるがゆえに、その弟子達の帰依心も相当なものであったことは容易に想像できる。しかし、日蓮のやり方が正しかったかどうかというのは別問題ではなかろうか。
たしかに、幾多の戦乱が起こり、天変地異も続き、疫病などの病気が蔓延していたような時代であり、世の中の人々の苦しみがいつになったら尽きるのかわからないような時代だったからこそ、日蓮のように声を大にして革命的なことを訴える人が必要だったのだという推測はできるが、それがいつの時代にも通用するかというとそうではない気がする。
さらには、お釈迦さまの教えはもう通用せず、今の世の中、仏としてあがめるべきは日蓮である、などと宣言している新興宗教もあるようだが、本末転倒もはなはだしいというべきであろう。
正しいのは宇宙の法則(いわゆる真理)であり、その法則に従い、他と調和して生きることである。法則を無視したら、とばっちりを受けるのは無視した本人である。正しいということを突き詰めていけば、ただそれだけのことである。
ゆえに、この法則を発見し、示してくださったお釈迦さまにはどんなに感謝してもしきれるものではない。さらに、日蓮含め、あらゆる祖師達は、お釈迦さまの教えを説き広めてくださった大先輩であり、大恩人であるということを忘れてはならないと思う。
大事なのは、その正しいことをこれから子孫にどのように伝えていくか、その時々に合わせてやり方を工夫する必要があるということである。
日蓮の遠忌法要となる10月、正しいということの原点を振り返り、改めて心に留め置きたいと思う。
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