仏教の経典の無量義経というお経の中に、「微渧(みたい)先(ま)ず堕(お)ちて以(もっ)て欲塵(よくじん)を淹(ひた)し」という一節がある。これは、「露のしずくが乾いた土の上に落ちると、そこのところだけ塵(チリ)が立たなくなる」ということである。
これの意味するところは、どんなに小さな、どんなにムダと思えるようなことでも、とにかく一歩を踏み出す、そのことがたいへん大事なことなのだということを示唆しているといわれている。
振り返ってみると、小さなこと、ムダなことでなくとも、とかく「そんなことをしてもあんまり意味がないだろう、何も変わらないだろう」あるいは、「骨折り損のくたびれもうけ」とばかりに、まず損得勘定をしてしまい、実行しようとすら思わないということが多いのではなかろうか。
別に損得勘定が「悪」だと言っているわけではないが、ムダと思えるようなこと、あるいは、明らかに失敗したこと、損をしてしまったことから新たな発想が生まれるということも往々にしてある。(ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんなども、失敗の連続だったそうであるし。)
先日テレビを観ていたら、ほとんど役に立ちそうもない珍道具なるものを次々と発明しているという、
日本珍道具学会というところが紹介されていた。そこにある珍道具十カ条というのが面白く、中でも、「実用になってはいけない」「市販されてはいけない」「金儲けは厳禁」という条文には思わず吹き出してしまった。
しかし、そこの学会の会長(といっても、会員は会長ただ一人(笑))のおっしゃることに思わず頷いてしまったのだが、現在の社会の発想の原点は、役に立つもの、便利なもの、量産できるものといったところにあり、それが逆に発想の力を抑え付けてしまっており、それを打破するためには、逆転の発想が大事なのだということだった。
「逆転の発想」という言葉自体は昔からあるが、逆転ということをより具体的に、「実用になってはいけない」「市販されてはいけない」「金儲けは厳禁」と言い切る会長のユニークさには敬意を表したいという気持ちになる。
ただ、その奥底には、やはり大きな目標があるわけであり、それはつまり社会貢献ということではなかろうか。その目標に向かうスタート地点はたくさんあり、その中の一つとしての逆転の発想、損得抜きの実行ということがあってよいはずである。
どんなにムダと思えるようなことでも何かの役に立つかもしれない、そんな発想を大事にしたいと思う。
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