浄土真宗の宗祖、親鸞(しんらん)の著書に「歎異抄(たんにしょう)」というのがあります。この中に面白い一節があります。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」
この意味は、「善人ですら成仏できるのだから、ましてや悪人はなおさらのこと成仏できるのです。」というのですが、常識的に考えると、逆じゃないの、という感じがしませんか?悪人ですら成仏できるのだから、善人はなおさらだよ、というふうに。
ではどういうことなのか。この点は、親鸞が説かれる阿弥陀信仰の究極的なところのようで、善人というのは、いわば努力して良い行いを積み重ね、仏の境地に近付きたい(成仏したい)という人であり、阿弥陀如来を信じきっておまかせする気持ちが薄い人なのであるということです。
そして、悪人というのは、いわゆる法律違反、道徳違反をする極悪非道な人ということに限らず、煩悩を自分自身の力で制御することのできない凡夫という意味ですが、こういう人のほうがむしろ、信仰心が篤いのだと親鸞は説かれています。
そもそも仏教は、どちらかというと努力主義の教えなのですが、その努力とは、確固たる信仰心の上にこそ成り立つのであるとも教えられています。つまり、親鸞は、仏教の中の、純粋に信仰心の部分のみを取り出して体系化し、宗派を開いたと想像できます。
また、妙法蓮華経というお経には、お釈迦さまのお弟子の一人の舎利弗(しゃりほつ)という人が、お釈迦さまの説法を聞いて弟子の中で一番最初にお釈迦さまの真意が理解でき、自分も仏に成れるのだということが分かって大喜びし、お釈迦さまに感謝を述べるシーンがあるのですが、ここでお釈迦さまは舎利弗に対して、「あなたが私の教えを理解できたのは、あなたが努力したからというよりむしろ、あなたが私の教えを信じるその心が基になっているのですよ。」ということが説かれています。
イワシの頭も信心から、などという諺もあるように、あらゆる行動を起こすもとは「信じる」ということであるといえると思います。床屋に行って自分の顔のひげをカミソリで剃ってもらうのでも、「もし首を切られたりしたら・・・」などと疑っていたら、とても床屋になんぞ行けないでしょう。
かといって、盲信という言葉もある通り、無条件になんでもかんでも信じるのは危険であり、ある程度の判断基準は必要になると思います。
一番の目安は、何十年何百年と長ーく続いている事柄なら、大抵は信じるに値するといえそうな感じがします。あとはやはり、自分自身の直感を磨くしかなさそうです。そのための努力と、信じるということは、やはりどちらが先ともいえなさそうですね。
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