「一休 逸話でつづる生涯」(安藤英男/著、鈴木出版)という本を読んだ。
一休とは、トンチの一休さんで有名な、室町時代の臨済宗のお坊さんである。テレビアニメの一休さんは、とても賢くて、トンチが上手で、かわいらしい小僧さんとして描かれており、たしかに幼少の頃はアニメのようなイメージでほぼ間違っていないようだが、青年期から晩年にかけての一休さんはかなり破天荒で、いわゆる「不良坊主」「なまぐさ坊主」というイメージがピッタリする人間像が伺える。
この著書には、主に中年期以降の逸話の、思わずふき出してしまいそうなお話が多く紹介されている。
その中で、晩年期近い頃の逸話の一つに、とても味わい深いものがあったので抜粋させて頂きたい。
あるとき一休のもとへ一人の老人がやってきた。
「私はもう80になりますが、死が近づいたようで落ち着きません。もう少し長生きができるようにご祈祷をしていただけませんか。」
そこで一休は聞いた。
「いったいどのくらいまで生きたいのですか。」
その老人は答えた。
「100までお願いできませんか。」
「あなたは欲が少ないお方だ。100まで生きればよいのですか。」
「いや、100までと定めたわけではないのです。もっと生きられれば尚いいのです。」
「それなら何歳まで生きられるように祈りましょうか。」
「それなら少し欲が深すぎますが150まで。」
「150でいいのですか。150といってもすぐに経ってしまいますよ。あなたは80歳だと言われましたが、150歳ではいままでの分ほどもありませんよ。」
老人はだまっていたが、やがて、
「人間って、いつまで生きたら満足できるものでしょうか。100になっても150になっても死ぬと決まるとあまりいい気持はいたしません。」
と言った。一休は、
「そうです。150年なんか夢のように過ぎてしまいます。」
と言った。こんどは老人が質問した。
「禅師さま、あなたはいくつまで生きるおつもりですか。」
「私たち坊主は、死なないことになっています。そういう祈祷を行なっています。」
「そういう祈祷があるのですか。」
「ありますとも。釈迦如来のご説法は全てそれです。つまり、不生不滅の法です。これによってわたしたちは法身になるのです。そうなれば死なないのです。肉身は死にますが、法身は死にません。経文の中にも、『転々としてこれを行ぜば、如来の法身常にあってしかも滅せず』とあります。だから、釈尊が80歳で亡くなられるときも、少しもなげかれなかった。かえって、法身ばかりになることを喜んでおられた。あなたも自分を法身にしてしまえば、生死は問題ではなくなります。」
こうして一休はじゅんじゅんに老人に説いた。老人は一休の弟子になって平和に往生できた。つまり、本当の命というものは、肉体が無くなっても無くならず、そして、誰の命であろうとも、始まりも無く終わりも無く永遠に存在するものだ、ということを説いているわけである。
このことを今の科学で証明できるかというと、以前から何度も書いている通り、現時点では不可能である。
さて、ようやく本題に入るが、今の世の中で一番危険と思われるのは、科学で証明できないことはほぼ無条件に却下される、ということである。今の科学が間違っているとまでは言わないが、未熟だと考えたほうがよほど謙虚と思うのだが、そう考える人が少ないのではないだろうか?
妙法蓮華経というお経の中の、如来神力品という章に、「未来において、科学と宗教は一致する」という意味のことが説かれているが、それを踏まえると、科学はもちろん宗教も、現時点では未完成なのであるといえると思う。
要するに、人そのものも未完成ということがいえるわけで、常に謙虚な心で、向上心を失わないようにしたいものである。
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