以前、供養ということについていろいろ書かせて頂いた。
先祖供養3をご参考願いたい。
そこでは主に、供養の意義的なことの紹介に終始し、具体的な方法については詳しく触れなかった。それは、当然ながら宗教や宗派の違いによってその方法は多種多様であり、全て紹介することはできないし、私自身、全て知っているわけでないからである。
しかし、神仏を敬ったり、先祖を供養するということの心境や姿勢には大きく共通する点があると思う。具体的には、花や香を捧げて場を清らかにする、飲食物などを捧げて感謝の誠を捧げる、手を合わせ、瞑目して頭(こうべ)を垂れて礼拝するなどの行為は、全ての宗教儀式に共通する行為である。
いや、無宗教の人であっても、特に日本人は、元旦にわざわざ神社や仏閣へ出かけて行ってお参りするなど、これも供養のあり方の一つであろう。ただ、この場合、供養ということよりむしろ、願望成就目的という意味合いのほうに片寄っていることも多いと思われるが、まあ、なにもしないよりはマシといえようか。
以前、供養とは、「供給(くきゅう)」と「資養(しよう)」という二つの意味から出来ている言葉であることを書かせて頂いた。供給とはさまざまなものを供えること、資養とは自分の心を養うこと、という意味である。こう書くと、2つの言葉が合わさった一つの単語ということになるが、実質的には、さまざまなものを供える供給という行為を積み重ねることによって、自分の心が養われ、整えられるということになるのである。
つまり、願望成就の目的のみで、いわゆるギブアンドテイクの発想で供養やお参りをするというのは、ちょっと違いますよ、ということである。あるいは、自分の精神修養の目的で供養やお参りをするということではない、ということにもなりそうである。いや、自分の精神修養を目的にすることが悪いといっているのではないし、それは大事なことである。
純粋に、神仏に畏敬の念を持ち、先祖に感謝の念を持ち、さまざまなものを供えたり、礼拝したりすることが最も大事なことであって、結果的に、自分の心が養われたり、もっと言えば願望成就にもつながるのだということがいえそうである。俗にいう「情けは人の為ならず」ということにも通じるだろうか。
さらに言えば、自分のためだけの行為というのは、えてして長続きしないものである。
神仏への畏敬、先祖への感謝を常に忘れず、その恩返しの心境・姿勢で日々生活することが一番大事なことと思われる。
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