ちょっとイイ話を聞いたのでメモっておきます(久しぶり)。
臨済宗(だったかな?)の、名前も失念してしまいましたが、あるエラいお坊さんが詠んだ道歌に、次のようなものがあります。
生まれ子の
次第次第に
知恵つきて
仏に遠く
なるぞ悲しき意味はそれほど難しくないと思います。要するに、悲しいかな年を重ねて大人になるにつれ、いろんな知恵がつくことによって、本来仏と同じであるはずの純真無垢な心が薄れていってしまう、ということです。
知恵というのは、簡単にいうと一つには知識ということです。ある程度知識を身につけるのは生きていく上で必要なことであります。しかし、その他の意味にはズルさということも含まれているようです。いつしか個人的な好き嫌いが判断の基準になり、無意識のうちに世渡り上手になろうとしてしまっていることが往々にしてあるのではないでしょうか。
仏教でいう智慧とは、たんなる知恵ではなく、智とは「分析」を意味し、慧とは「総合」を意味しているといわれています。分析とは、物事の相違点を見出すこと(分解)、総合とは、物事の共通点を見出すこと(構築)ということです。
これは、何事においても重要な能力であると思います。これを人間を観る立場とすると、太郎と次郎は体格も性格も違いがあるが(分析)、動物や植物をかわいがるやさしい心は同じである(総合)など、相違点だけでなく共通点も見出す、そういう両面の見方が大事ですよ、というのが智慧ということであります。
さらに、仏の智慧という場合、その判断の基準は、損得や好き嫌いなどでは当然なく、慈悲である、ということです。この慈悲ということも、簡単にいうと「愛」ということですが、これもあえて詳しくいうと、「慈」とは楽を与えてあげたいと思う心、「悲」とは苦しみを取り除いてあげたいと思う心をいいます。
年をとるにつれ、さまざまな知恵が身についてしまうのはある種仕方のないことのように思いますが、智慧と慈悲の意味を忘れないようにしていきたいと思います。
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