<農民芸術概論綱要>というのをご存知でしょうか。これを聞いてピンとくる人は、相当な宮沢賢治フリークといえる人だと思います。ですが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」というフレーズを聞けば、ほとんどの方がご存知であろうと思います。このフレーズは、農民芸術概論綱要の序論のところに記述されています。
さて、この「世界がぜんたい・・・」という部分ですが、なぜ「世界 ぜんたい
が」でなくて「世界
が ぜんたい」になっているかというところがポイントです。
「世界 ぜんたい
が」と言う場合は、バラバラになっている一つ一つの世界を全部まとめた全体という意味合いに感じられますが、「世界
が ぜんたい」と言うと、元々一つしかない大きな世界、その世界全体という意味合いに感じられます。つまり、法華経に傾注していた宮沢賢治は、世界=地球(もっといえば宇宙)を法華経観に基づいたかけがえのないたった一つとして捉えていたのだ、というのです。
以上のような解説をしているサイトをあちこちで拝見し、なるほどなーと思わせられましたが、どうも理屈っぽい感じも否めません。
世界とは元々たった一つであるという前提に基づくならば、わざわざ「ぜんたい」という必要はないような気がします。そこで、この農民芸術概論綱要をざっと読んでみてふと思ったのは、「ぜんたい」というのは、「いったいぜんたい」などというときの「ぜんたい」の意味ではなかろうかということです。
「いったいぜんたいどうなってるんだ!?」などというときの「ぜんたい」です。つまり、「ぜんたい」とは、「そもそも」とか「なにしろ」とか「とにかく」という意味なのではなかろうかということです。
本サイトの冒頭紹介にも書かせて頂いているとおり、釈尊は、あらゆるものが仏性を具え、光輝いているということを悟られたわけですが、要するに、世界中の一人残らず、一人一人がこの釈尊の悟りに達することこそが、世界平和であり、個人のほんとうの幸福であるという受け止め方ができると思われます。
そのためには、多くの思想、哲学、宗教が存在するこの世界においては、否定でなく肯定、排他でなく協力というやり方が重要になってくるのではないでしょうか。
まずは、一人一人自らが、自分の尊さに気づく、またそういう人を増やすはたらきかけを実践していくことが大事なことであると思います。
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